2019年7月31日水曜日

姫路市の城跡散策

姫路市の城跡散策

世界文化遺産・国宝「姫路城」 ⇒ 御着城跡 ⇒ 大塩城跡 ⇒ 妻鹿城跡 ⇒ 間浦古郭 ⇒ 英賀城跡 ⇒ 丸亀藩陣屋跡 ⇒ 林田藩陣屋跡 ⇒ 坂本城跡 ⇒ 置塩城跡

 姫路城

姫路城
豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制するため、徳川家康から命を受けた池田輝政公は、1601年から8年、1609年(慶長14年)現在の広大な城郭を姫山に築きました。築城に携わった人員は、4~5千万人といわれています。
姫路城の縄張りは、大天守を中心に南の平野部へ左巻きに渦を描きながら螺旋状に広がった「渦郭(かかく)式縄張り」で、日本の城の中では江戸城と姫路城だけの珍しい縄張りです。
姫路市本町68

御着城跡

城の中核に本丸(姫路市東出張所あたり)と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の濠、北と東は四重の濠、外郭部に家老屋敷や町家がありました。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走っています。御着城は、中世末期に西播磨最大の国だった小寺氏の本城で、東播磨を押えていた別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに「播磨三大城郭」といわれていました。
姫路市御国野町御着1142-8

大塩城跡(西法寺)

西法寺の境内が大塩城跡と伝えられています。東側の公園は外濠の跡だそうです。城主・大塩次郎景範(かげのり)の嫡男(ちゃくなん)景光は、赤松則祐に従い神南の合戦で功績をあげたそうです。
高砂市北浜町北脇・西法寺内

妻鹿城跡

妻鹿城跡(別名:国府山城)は、市川右岸の標高98mの甲山に築かれた山城で、1580年(天正8年)秀吉に姫路城を渡し、黒田官兵衛は父・職隆とともに移り住みました。山の麓にある「妻鹿城址」の碑は1970年(昭和45年)建立されました。
姫路市飾磨区妻鹿

間浦古郭(城山公園)

城山公園は、飯盛山の古城跡で、地元では「城山」と呼ばれています。城主は苦瓜助五郎本道といわれています。
姫路市家島町真浦

英賀城跡

英賀城は室町時代の中頃、赤松一族によって造られましたが、1441年5月、城主の赤松祐尚(すけなお)が亡くなり、恋浜(現在の白浜町)の城主・三木氏がここに移り大きな城に建て替え、約140年間、東は的形から西は室津までを領土として英賀は栄えました。1580年(天正8年)1月、羽柴秀吉は三木城を落城させた後、同年2月、英賀(三木通秋)に攻め込みます。秀吉の策略に応じた三木与一兵衛ら5人が秀吉軍を城内に入れたことにより、焼き討ちにあい、英賀城は一夜にして廃墟となってしまいます。この英賀城本丸跡石碑は、英賀城本丸のあったところに1960年(昭和35年)建てられました。
姫路市飾磨区英賀

丸亀藩陣屋跡

龍野藩主・京極家が、四国・丸亀に移封されても興浜や浜田の地は、丸亀藩の飛地となり、京極家の領地でした。この興浜の陣屋には、郡代や郡奉行が派遣され、藩の屋敷などがありましたが、1870年(明治3年)取り壊されました。この建物は老朽化した陣屋門を参考に、1987年(昭和62年)改築されたものです。
姫路市網干区興浜

林田藩陣屋跡

室町後期、谷沢国氏(くにうじ)が子の丘に築城、窪山城(くぼやまじょう)と名付けたのが始まりといわれています。1516年、赤松政村に背(そむ)き落城。林田藩の藩祖・建部政長は1610年8歳で亡父の後を継ぎ、大阪の陣で徳川方に付き、摂津国・尼崎城を固守し、その功績が認められ、1615年、摂津国川辺郡・西成郡の内一万石の所領を与えられます。1617年、播磨国揖東郡林田(現在の姫路市林田町)に国替えとなり、窪山城跡を聖岡(ひじりがおか)と改め、ここに陣屋を構えました。政長は、灌漑(かんがい:排水)用に鴨池をつくり、特に、農業に力を入れたそうです。三代・政宇(まさいえ)は伏見奉行にもなり、京の大火で御所が炎上した際、造営に取り組み、1714年寺社奉行に昇進したそうです。七代・政賢(まさかた)は、学問を好み林田藩校・敬業館(けいぎょうかん)を創設、藩の繁栄に大きく貢献しました。九代・政和は、幕府の大番頭として京の二条城守護の重責についています。また、藩校・敬業館の講師に河野鉄兜(てっとう)を迎え、藩の繁栄にも貢献しました。林田藩は藩主の交代もなく廃藩置県まで250年、十代に渡り建部家が治めていました。歴代藩主の墓は、京都・大徳寺内芳春院に祀られています。建部家は外様大名(徳川家の本来の家臣ではなく、関が原の戦い以後、臣従した諸大名)でした。
姫路市林田町

坂本城跡

平城で別名を堀之城または御構御所ともいわれています。1422年(応永29年)、赤松満祐が播磨支配の拠点として築城したそうです。
姫路市書写2465-2

置塩城跡

置塩城(国指定史跡)は、標高370mの城山山頂部に、東西約600m・南北約400mに広がる播磨最大規模の山城です。山上には、曲輪・通路・石垣・土塁などの遺構もよく残り、平成13~17年に行われた発掘調査では、主郭から礎石や庭園、築地土塁を持つ格式の高い屋敷跡が確認されています。また、伝本丸からは基礎を塼瓦(石畳のように土間や地面などに敷き並べる平たい瓦のこと)で区画した天守に似た櫓状の建物も発見されています。1441年、嘉吉の乱後に赤松宗家を再興した赤松政則が、播磨守護に就き、1469年(文明元年)に築城しました。以後、義村・晴政・義祐・則房の五代にわたり、置塩城を赤松家の本城としました。1580年(天正8年)、播磨を平定した羽柴秀吉は、翌年、播磨国内の置塩城他の破却を命じ、1585年(天正13年)則房が阿波へ移封されるまでの間に置塩城は廃城になったと考えられています。
姫路市夢前町置塩



2019年7月30日火曜日

ドライブ・安富町散策コース

安富町散策コース

車で鹿ヶ壺へ ⇒ 徒歩で奥播磨かかしの里 ⇒ 車で富栖(とみす)の里へ ⇒ 車で古井家住宅 ⇒ 車で播磨国安志加茂神社へ ⇒ 車で安志姫神社へ ⇒ 車で植木野天満神社とムクの木 ⇒ 車で林田川沿いの桜並木 ⇒ お疲れ様でした。帰路へ

安富町について

安富町は、姫路市の北西部に位置し、南北に細長い町です。播磨国風土記に「禾(しさわ)郡安師里」倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう:平安時代)に「安志郷」平安時代末期に京都賀茂別雷社(上賀茂神社)領の「安志庄」が戦国時代まで続く。1717年(享保2年)に小笠原氏が転封となり、安富町域の大半を含む「安志藩」が廃藩置県まで続きました。
1889年(明治22年)北部に「富栖村」、南部に「安師村」
1956年(昭和31年)両村が合併「安富町」に
2006年(平成18年)「姫路市」と合併

鹿ケ壷

雪彦山系から流れ出る林田川の支流が流紋岩の岩盤を滝のように流れ、その浸食で滝壺や甌穴(おうけつ)が大小十数個連なった壺のことで、最も大きなものは水深5mに達します。三ヶ谷の滝は落差約20mあり、岩盤に白く水が流れ落ちる様子が評判です。ここ鹿ケ壷は、兵庫県の名勝に指定されています。
姫路市安富町関

奥播磨かかしの里

姫路市安富町関地区の集落一帯には、地元の人達が日常生活をテーマにした「案山子(かかし)」を道路沿いに約130体展示、安富町を訪れる人たちの話題となっています。
姫路市安富町関地区の集落一帯

富栖の里

富栖(とみす)の里は、大正~昭和にかけて栄えた「金鉱山・富栖鉱山」の坑道跡をそのまま利用した「坑道ラドン浴」が楽しめる日本で唯一の施設。坑道ラドン浴とは、坑道内に充満したラドンガスを吸う健康法で、ヨーロッパ・オーストリアの坑道浴が有名です。
☎ 0790-66-4750
姫路市安富町皆河
字大河550-139

古井家住宅

古井家(ふるいけ)住宅(千年家)は、室町末期に建てられた民家で、全国でも古く「千年家」と呼ばれています。床下の亀石という大きな石は、幾度の火難の際、水を噴出して家を守ったという伝説があるそうです。現在、千年家公園として一般公開。1967年(昭和42年)国の重要文化財に指定されました。
開館:土・日曜日・祝日
開館時間:9時~17時
駐車場料金:200円
姫路市安富町皆河233-1

播磨国安志加茂神社

中国自動車道・山崎インターの手前に色鮮やかな朱塗りの大鳥居が見えます。これが「安志加茂神社」で、家内安全・商売繁盛の神として知られています。
京都賀茂別雷神社(上賀茂神社)の庄園(奈良時代末期、貴族や寺社が諸国に私的に領有した土地のこと。)安志庄の総社として建立され、境内には安志稲荷、新池の中には弁天宮が祀られ、色鮮やかな朱塗の鳥居が数多く立ち並んでいます。
<アジサイ>
安富町のシンボル・あじさいの普及のため、境内にアジサイが植えられ、アジサイ神社としても有名です。見頃は、6月中旬頃です。
<大干支>
正月には参道に飾られた大干支をくぐりお参りする初詣客で賑わいます。秋には奉納祭が執り行われ、獅子舞奉納を皮切りに屋台練りや奉納相撲が行われます。
姫路市安富町安志407

安志姫神社

「播磨国風土記」に登場する安師比売神が主神。現在の安志は、この神の名から生まれた地名といわれています。
姫路市安富町安志三森13

植木野天満神社とムクの木

植木野天満神社は、菅原道真を祀る神社。神社の南側のムクの木は、樹高約19m、地上4m付近で枝がわかれ半径10mほどに広がっています。樹齢600年と推定され、兵庫県指定の天然記念物に指定されています。
姫路市安富町植木野330

林田川沿いの桜並木

姫路市安富町の植木野から塩野地区まで、林田川沿いの東岸の桜並木と河川敷の菜の花が話題に!!
姫路市安富町植木野~
塩野地区まで



2019年7月29日月曜日

路線バス・旧林田藩城下町散策コース

路線バス・旧林田藩城下町散策コース

姫路駅北口・姫路駅バスターミナル・4番乗場「林田・山崎行」(乗車) ⇒ 林田バス停下車 ⇒ 建部神社 ⇒ 林田藩陣屋跡 ⇒ 藩校・敬業館 ⇒ 旧三木家住宅 ⇒ 済水寺 ⇒ 西池(鴨池) ⇒ 祝田神社 ⇒ 道林寺 ⇒ ヤヱガキ酒造 ⇒ 林田八幡神社 ⇒ 素麺濫觴の碑 ⇒ 因幡街道の古い町並み ⇒ 薬師寺 ⇒ 塩阜神水 ⇒ 林田バス停「姫路駅北口行」(乗車) ⇒ 姫路駅北口(着)帰路へ

林田町について

ここ姫路市林田町は、建部家一万石の城下町で、姫路駅の約10km北西に位置し、鳥取へ通じる「旧因幡(いなば)街道」筋にあり、人馬継立(つぎたて)も行われた交通の要でした。聖岡(ひじりがおか)には建部家の居館があり、岡の周囲は濠をめぐらし、濠の外は侍屋敷や東の街道筋には町家が並んでいたそうです。現在も当時の城下町の雰囲気が残っています。

約250年続いた林田藩建部家

建部神社
室町後期、谷沢国氏(くにうじ)が子の丘に築城、窪山城(くぼやまじょう)と名付けたのが始まりといわれています。1516年、赤松政村に背(そむ)き落城。林田藩の藩祖・建部政長は1610年8歳で亡父の後を継ぎ、大阪の陣で徳川方に付き、摂津国・尼崎城を固守し、その功績が認められ、1615年、摂津国川辺郡・西成郡の内一万石の所領を与えられます。1617年、播磨国揖東郡林田(現在の姫路市林田町)に国替えとなり、窪山城跡を聖岡(ひじりがおか)と改め、ここに陣屋を構えました。政長は、灌漑(かんがい:排水)用に鴨池をつくり、特に、農業に力を入れたそうです。三代・政宇(まさいえ)は伏見奉行にもなり、京の大火で御所が炎上した際、造営に取り組み、1714年寺社奉行に昇進したそうです。七代・政賢(まさかた)は、学問を好み林田藩校・敬業館(けいぎょうかん)を創設、藩の繁栄に大きく貢献しました。九代・政和は、幕府の大番頭として京の二条城守護の重責についています。また、藩校・敬業館の講師に河野鉄兜(てっとう)を迎え、藩の繁栄にも貢献しました。林田藩は藩主の交代もなく廃藩置県まで250年、十代に渡り建部家が治めていました。歴代藩主の墓は、京都・大徳寺内芳春院に祀られています。建部家は外様大名(徳川家の本来の家臣ではなく、関が原の戦い以後、臣従した諸大名)でした。
林田藩陣屋跡
<参考>
臣従(しんじゅう)とは、家来として従うこと。

林田藩校・敬業館

1794年、七代目藩主・建部政賢(まさかた)が敬業館を開校。一度火災にあいますが再建され、孔子を祭った聖堂(せいどう)や練武場(武術の練習場)、文庫などが備わっていました。現在は、講堂だけが残っています。明治維新後は小学校や村役場、戦後は公民館として利用されていました。1979年(昭和54年)復元工事が行われ、講堂の正面玄関には、松平定信筆の「敬業館」の額が掛けられています。この藩校は、全国的にも数少ない貴重な建物として高く評価されています。
姫路市林田町13

林田大庄屋・旧三木家住宅

林田藩一万石の領内に一万石の大庄屋が3件あったそうです。そのうちの一軒が三木家です。三木家は、英賀城主三木氏の出自と伝えられています。1580年、羽柴(豊臣)秀吉による播磨侵攻で英賀城が落城。一族は各地に逃れ、当家は林田に来て帰農し、江戸時代を通じて林田藩の大庄屋をつとめました。長屋西端には藩主を迎え入れるための御成門や広い屋根の中央に茅葺の屋根、周囲の長屋門、土蔵など6棟が、1990年兵庫県重要有形文化財に指定されました。
姫路市林田町中構74

済水寺

済水寺(さいすいじ)は、庄屋の三木家十一代当主が、盤珪(ばんけい)を迎えて開いた寺です。境内には、六代藩主・建部長教(ながのり)の茶昆所の塔という五輪塔があり、地元の人達から「殿様の墓」と呼ばれています。

西池(鴨池)

林田藩西御殿「発興亭」があった西池(鴨池)と琵琶山

祝田神社

祝田神社(はぶりた)は、延喜式に記載された古いお宮で、貴船社とも呼ばれたことがあります。
<延喜式とは
延喜式(えんぎしき)とは、平安時代中期に編纂された格式で、三代格式(弘仁格式貞観格式延喜格式)の一つ。本殿に向かって左手に藩主(三代政宇、七代政賢、八代政醇)が寄進した石燈ろうがあります。鳥居は、姫路では珍しい朱塗木製の両部鳥居で、参道のもみじ並木は有名で、市の保存樹に指定されています。
藩主が寄進した石燈ろう

祝田神社で映画のロケ
風のファイター SPO
2006年 主演:ヤン・ドングン

姫路市林田町上構199

道林寺と河野鉄兜の墓碑

幕末の詩人、敬業館講師の河野鉄兜の墓碑が墓所にあります。文崇先生之墓と記され側面に略歴が刻まれています。
姫路市林田町六九谷816

ヤヱガキ酒造㈱

ヤヱガキ酒造㈱は、1666年(寛文6年)創業。代表銘柄の「黒乃無」などは、2012年「現代の名工」に選ばれた杜氏・田中博和氏がこだわる伝統的な「蓋麹(こうじぶた)法」で醸造されています。全国新酒鑑評会金賞受賞やモンドセレクション酒類部門金賞受賞など多数受賞。
姫路市林田町六九谷681

林田八幡神社

893年(寛平5年)林田庄内八ヶ村の有志36名が山城石清水八幡宮より神体を勧請(かんじょう)しました。林田藩主・建部氏は、10代250年にわたり崇敬し、政宇・政賢・政醇らが奉納した、石灯籠や絵画などがあります。
姫路市林田町八幡749

素麺濫觴(らんしょう)の碑


因幡街道の古い町並み


薬師寺の松尾芭蕉句碑

1671年(寛文11年)澄光の開基。尊王派の浪士として池田屋騒動で倒れた大高又五郎をはじめ旧藩士の墓が多い。松尾芭蕉の句碑や梵字を刻んだ珍しい名号塔がある。
降すとも 竹うゆる日は 蓑と笠 はせを(表)
今もその しづくしとうや 時雨蓑(裏)

海水が湧くという塩阜神水

播磨国風土記には、この丘の南に塩水の出るところがあり、縦横それぞれ三丈位(約9m)、海から離れること三十里程(約16km)、 底に小石を敷き周りに草が生えています。そこは、海に通じていて満潮のときは、深さ三寸ばかり(約9cm)になり、 牛・馬・鹿などが好んで飲んだことから「塩阜(しおおか)」と名付けられました。」と書かれています。