2019年7月19日金曜日

山陽電車・飾磨駅周辺散策コース

山電・飾磨駅周辺散策コース

山陽電車・飾磨駅
山電・飾磨駅(出発) ⇒ 恵美酒天満神社 ⇒ 有本芳水之碑 ⇒ 姫路藩水運跡 ⇒ 御蔵跡 ⇒ 菅原道真像と歌碑 ⇒ 津田の細江・思案橋 ⇒ 浜の宮天満神社 ⇒ 姫路藩浦手番所跡 ⇒ 藤田翁顕彰碑 ⇒ 湛保 ⇒ 姫路藩御台場跡之碑 ⇒ 魚屋堀跡碑 ⇒ 姫路藩御茶屋跡碑 ⇒ 東堀町会所跡 ⇒ 御船役所跡碑 ⇒ 山電・飾磨駅から帰路へ

飾磨津について

飾磨津(しかまづ)は、姫路城の外港として重要な位置を占め、姫路市飾磨区玉地の向島には、姫路藩の水軍・御船手組(おふなてぐみ)が置かれていました。江戸時代、飾磨津といったのは、須加町・細江町・上町・大町・宮町・御幸町・東堀町・田町・上英加町・下英加町・都倉町の11町です。このうち、須加町・大町・宮町・御幸町・東堀町・田町の6町を浦手(うらて)、細江町・上町・上英加町・下英加町・都倉町の5町を岡手(おかて)と呼ばれ、東堀町には、姫路忍町以南の町方20町を支配する町会所が置かれていました。

恵美酒天満神社

漁場の神として戎の神を祭ったので恵美酒といわれています。絵馬に描かれている「神護丸」は、姫路藩が建造した西洋帆船で藩の御用船であると共に商船としても利用されました。船の大きさは、長さ49m、乗組員23名、千二百石以上と伝えられています。拝殿入り口の力石は、大浜岩吉が1842年(天保13年)奉納したものです。
姫路市飾磨区恵美酒14

有本芳水之碑

有本芳水(ありもと ほうすい)は、詩人・歌人で、姫路市生まれ。早稲田大学卒後、実業之日本社入社。雑誌『日本少年』主筆として活躍し、詩集には、芳水詩集・旅人・ふる郷・かなしき笛等があります。

姫路藩水運跡

姫路藩領内6ヶ所にあった米蔵の一つで、飾磨にも置かれて「飾磨御蔵」と呼ばれていました。船場川と宮堀川の水運を利用して、高瀬舟で大阪から届いた米や物資を姫路城下まで輸送されていました。
現在の御幸橋西詰一帯(宮公園一帯)は、米蔵の船着場でした。飾磨御蔵の場所は、その船着場の北側周辺にあったといわれています。また、ここ宮町周辺には飾磨市役所庁舎があり、姫路市と合併する昭和初期までは、飾磨市の官庁街として大いに賑わっていました。

御蔵跡

姫路藩領15万石の内、数万石の米を保管していた蔵の跡です。船場川と宮堀川の水運を利用して米の輸送が行われていました。付近には大きな船溜りがありました。

菅原道真像と歌碑

とも網の上に座った姿で、菅公小憩の地という伝承をもとに作られました。坐像のそばには、「東風吹かばにほいおこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」の歌碑が建てられています。

津田の細江

「風吹けば波がたたむと、待つ程に、都多の細江に浦がくりをり」万葉集の山部赤人の歌ですが、この都多の細江は、船場川の川口で、思案橋付近だといわれています。

浜の宮天満神社

祭神は菅原道真です。社前の常夜灯は、魚問屋・生魚仲買中・釣船中・魚充子中・など漁業関係者が奉納したものです。秋祭りは、屋台の台場さしで有名です。
姫路市飾磨区須加40

浦手番所跡之碑

飾磨津川口御番所ともよばれ、姫路藩が船の出入りの多い海岸部に設けた番所で、室津・高砂・家島にも置かれていました。

藤田翁顕彰碑

この築港に特に功労のあった藤田祐右衛門は大浜の人で、肥料問屋を営む町人でした。防風のために私費で数千本の松を植えましたが、今はその面影もありません。湛保の入り口に彼の顕彰碑が建っています。

湛保

飾磨の湛保(たんぽ)は、四国の丸亀港を参考にして、1846年(弘化3年)わずか6ケ月で完成されました。排水のために水車四十数台を使用するという大土木工事で、掘り出された土砂を積み上げてできた小山は、弘化山と命名されたといいます。完成後は、湛保周辺は大変賑わいました。

姫路藩御台場跡之碑

幕末、姫路藩が大砲数門を設置した場所で、砲手数名が勤務し、網干沖に標的をおいて訓練したといわれています。

魚屋堀之碑

魚屋は、岡上家の屋号です。堀の大部分は昭和6年の臨海道路築造の際、埋め立てられました。

姫路藩御茶屋之址

姫路藩主・榊原政邦が建てた姫路藩御茶屋は、現在のNTT西日本飾磨別館周辺にありました。建物は1928年(昭和3年)に埋められ残念ながら現存しませんが、国道250号線(浜国道)沿いに「姫路藩御茶屋之」が建てられています。

東堀

東堀は、古い港町で河岸(かし)には回船問屋が軒を並べ、大阪方面への船着場として繁栄していました。当時、姫路の特産品であった姫路木綿は船場川を利用して東堀町の木綿荷受所に回漕され、江戸積みが行われていました。

東堀町会所跡

ここ東堀町には「東堀町会所」が置かれていました。1873年(明治6年)から飾学(しかがく)学校に利用され、1877年(明治10年)から姫路警察署飾磨交番に使用されていました。建物は現存しません。

御船役所跡碑

この御船役所には、御船手とよばれる士族が常駐し、藩の海事業務を取り扱っていました。御船手組には大舟頭、小船頭、小頭、矢倉、使役、御水主(おんみご)の階級があり、定員は200名で、「城付き」(藩主が国替えになっても従わず、そのまま新藩主に仕える)の特例がありました。保有船舶は時代によって違いますが、約60隻といわれています。



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