十二所神社
|
|||||
十二所神社が姫路城の表鬼門の護(まも)りとして外濠の角目に置かれ、境内は大きな樹木が立並び、現在の数倍の面積があったといわれています。
|
|||||
当時、東京の亀戸天神の「藤」に対し、十二所神社の藤は「西の大藤棚」といわれ、京阪神からのお客さんで賑わったそうです。現在小規模ですが、見事な藤の花を咲かせています。見頃は、4月中旬~5月中旬。
|
|||||
「西の大藤棚」復活を願って
|
|||||
|
|||||
|
|||||
お菊神社
|
|||||
姫路城内のお菊井戸
|
|||||
「播州皿屋敷」でお馴染みのお菊神社が十二所神社内にあるのは、当時、お菊さんが十二所神社によく参詣していたからだそうです。美人だったお菊さん、美しい幽霊の噂が広がり、大勢の男達が恐々「お菊井戸」を訪れたといわれていたそうです。お菊まつりは、毎年5月8日お菊神社で開催されます。
|
|||||
|
|||||
|
|||||
「遊びにおいで姫路へ」は、あまり紹介されたことのない姫路の観光スポットや散策コース、うまいもん、花だより、みやげ物、おいしい食べ物や工芸品の体験情報など満載です。姫路ファンの皆さんに「楽しかったわ。面白かったわ。」と100%満足していただくための「姫路観光情報ガイド」です。
2019年4月30日火曜日
十二所神社とお菊神社
2019年4月29日月曜日
ゆかた祭りの「長壁神社」
長壁神社
|
|
長壁神社は、1,000年以上前から現在の姫路城のある姫山に鎮守神として祀られていました。しかし、黒田官兵衛や羽柴秀吉(豊臣秀吉)が姫山に本格的な城を築き、池田輝政が現在の姫路城に改修してからは、城内にある長壁神社には武士以外は参拝できなくなりました。
|
|
|
|
ゆかた祭り
|
|
長壁神社前
|
|
西二階町商店街
|
|
1732年(享保17年)姫路藩主・榊原政岑(さかきばら まさみね)は、将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅(ぜい)を尽くし、奇抜な服装で江戸城・大手門を警備、江戸・吉原では派手に遊興に耽(ふけ)り、新吉原の三浦屋・名妓・高尾太夫を2,000両で身請けするなど、度を過ぎた贅沢を好んでいました。また、高尾太夫のために酒宴を開いた費用は、3,000両を超えたといわれています。これは尾張藩主・徳川宗春の乱行同様、享保(きょうほ)の改革に対する抵抗と見なされ、将軍・吉宗の怒りを買い、1741年(寛保元年)10月、吉宗は政岑に上京を命じ、その乱行を厳しくとがめました。当初、吉宗自身は改易(かいえき:武士から身分を剥奪し、所領と城・屋敷を没収すること)を考えていたそうですが、榊原家の家老・尾崎富右衛門が懸命な弁明に努めたため、10月13日、強制隠居の上で蟄居(ちっきょ:武士に科した刑罰で、自宅等に閉じ込め謹慎させること)を命じられ、家督は息子の榊原政純が継ぐことが許されましたが、越後高田に懲罰的な転封(てんぽう:所領を別の場所に移すこと)を命じられました。転封前、政岑は長壁神社に庶民も参拝できるようにと長源寺の境内に社を移し、1742年(寛保2年)6月22日に遷座(せんざ)祭を開催しました。その祭に町人が式服を作る時間がなく、参加するのを躊躇(ちゅうちょ)していたところ、政岑が「よいよい、普段(浴衣)のままで」と申され、町人は浴衣姿で祭りに参加したそうです。その後、例祭に参拝する人がそれに倣(なら)って浴衣を着るようになりました。これが「ゆかたまつり(毎年6月22日~24日に開催)」の起源といわれています。
|
|
<参考>
|
|
当時、浴衣は下着と同じで、そのまま外に出ることは「はしたない」と考えられていましたが、これがキッカケで、夏祭りに浴衣を着ることが広まったといわれています。
|
|
|
|
2019年4月28日日曜日
姫路菓子の歴史
姫路菓子の歴史
|
姫路に菓子文化が根付いてきたのが、江戸後期といわれ、当時、藩主であった酒井家が茶の湯を好んだことで、姫路城下に広がったといわれています。この頃の姫路藩の財政は困窮し、73万両(現在の価値にして約440億円)の財政赤字がありました。当時の藩主・酒井忠以(ただざね)は、家老の河合寸翁に藩の財政再建に専念するよう命じました。河合寸翁は藩政改革を行うとともに、農商工業の振興と木綿会所を開設させ、木綿、小麦粉、菜種油、砂糖などの物産を全国から姫路城下に集め、商業を盛んにさせました。中でも、茶人の寸翁は和菓子づくりを奨励し、職人を江戸や京都、長崎に派遣し、技術の習得をさせました。その伝統は現在も受け継がれ、「玉椿」、「きぬた」「三左衛門」「清十郎最中」「御座候」「姫路駄菓子(油菓子)」など様々な菓子が作られています。
|
玉椿
|
きぬた
|
三左衛門
|
清十郎最中
|
御座候
|
本わらびもち
|
姫路駄菓子(油菓子)
|
姫路の和菓子は、茶の湯に使われるようになった「半生菓子系」と、油で揚げた「油菓子系」に分けられます。油菓子は長崎に伝えられたものが全国各地に広がったものですが、姫路では、藩主・酒井忠以の時代以降、藩の援助育成のもと、全国各地から集められた良質の小麦粉や菜種油等を使ったのが「姫路駄菓子(油菓子のこと)」で、昭和初期まで姫路市の船場本徳寺の門前に駄菓子屋が軒を連ねていましたが、戦災で焼失し、業者も市内各所に分散してしまいました。戦後は、全国各所にあった業者が減少する中、姫路の油菓子「姫路駄菓子」は、全国で有名となり、その名を馳せることとなりました。1952年(昭和27年)姫路菓子同業組合が設立され、品質の向上や販売方法の研究などを行い、数年おきに開催される全国菓子大博覧会にも出展し、名誉総裁賞など数多くの賞を受賞しました。
2008年「全国菓子大博覧会・姫路菓子博」が世界文化遺産・国宝・姫路城で行われ、菓子博史上最高の92万人の入場者がありました。
|
姫路菓子組合・姫路菓子の歴史から
|
|
ピオレ「播州うまいもん処」
ピオレ「播州うまいもん処」
|
||||
「播州地域のうまいもんをバラエティ豊かにワンストップで味わえる食の空間」をコンセプトにピオレ姫路おみやげ館内にオープン。姫路名物「姫路おでん」や「播州烏骨鶏」など、ここでしか味わえないご当地グルメを提供。
|
||||
|
||||
|
||||
郷土名産コーナー「播産館」
郷土名産コーナー「播産館」
|
|||
|
|||
じばさんびる1階「播産館」は、姫路・西はりま地域の菓子や酒、醤油、革製品、乾めん、伝統工芸品など姫路・西はりまの魅力がたっぷり詰まったみやげ物を販売。
|
|||
|
|||
|
|||
お菓子・お酒のお土産は「宝蔵」
姫路の土産物は「宝蔵」
|
|||
姫路城大手門前の「いの屋敷」にある姫路の宝蔵(たからぐら)は、姫路の和菓子や地酒を中心に、姫革細工、明珍火箸などの伝統的工芸品、姫路・西播磨地域の特産品を数多く品揃えした「お土産専門店」です。この宝蔵は、姫路菓子組合が運営しています。
|
|||
|
|||
|
|||
姫路城内の売店
姫路城売店
|
|||
姫路城出口改札を出たところにある赤いのれんが目印の小さなお店です。姫路城関連グッズや姫路市キャラクターの「しろまるひめグッズ」、明珍火箸風鈴、姫路革細工などの伝統工芸品、地酒や和菓子などを販売。
|
|||
|
|||
西の丸茶屋
|
|||
|
|||
|
|||
播磨国総社・射楯兵主神社
播磨国総社・射楯兵主神社
|
||
神門
|
||
拝殿
|
||
総社御門
|
||
播磨国総社・射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は、延喜式(えんぎしき)神名帳(しんめいちょう)所載(しょさい)の古社で、播磨地方の大小明神(174座)の神々を合祀(ごうし)した一国の総鎮守(そうちんじゅ)です。市民からは「そうしゃ」「そうしゃさん」と呼ばれ、市民や播磨地域の人達からも親しまれています。正式な神社名は「射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)」で、創建は不詳ですが、播磨風土記に「因達里(いたてのさと)にいます伊太代神(いたてのかみ)」と所載されていることから奈良時代以前といわれています。
|
||
撫でみみずく
|
||
鬼石
|
||
|
||
一ツ山・三ツ山大祭
|
||
一ツ山大祭
|
||
三ツ山大祭
|
||
三ツ山大祭は、播磨国総社(射楯兵主神社)で行われる特殊神事で、3月31日から4月7日まで、毎日の御遷祭のほか、さまざまな奉祝行事が行われ、国土平穏・五穀豊穣・万民安楽をお祈りします。早朝、白浜海岸での「潮かきの儀」から始まり、連日、神事やさまざまなイベントが催されます。古くから神は、地上の高いところに降臨(こうりん)されると考えられ、自然の山を御神体とするのが祭りの原型の姿です。総社は、地上に自然の山を模した巨大な人口の「やま」をつくり、その山上に神の降臨を仰ぐ「置き山」という形態をとっています。「置き山」は、国の重要民族資料に指定されていて、その大きさは直系10メートル、高さ18メートルという巨大なものです。「置きや山」を1基つくる「一ツ山大祭」は約60年に一度、「置き山」を3基つくる「三ツ山大祭」は約20年に一度行われています。
|
||
|
||
登録:
投稿 (Atom)