山電・網干駅周辺散策コース
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山陽電車・網干駅
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網干について
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1889年(明治22年)興浜・余子浜・大江島・浜田と新在家村の一部が合併し網干町となりました。1946年(昭和21年)姫路市と合併。網干の由来は、魚吹八幡神社によると720年(養老4年)の放生会(ほうじょうえ:捕まえた生き物を買い集めて逃がしてやる儀式のこと)に、氏子の漁師は網を干して参拝したことから「網干祭」といわれ網干と称したそうです。播磨国風土記によると網干は古くから栄えた地であったそうです。江戸時代の網干は、姫路藩領・龍野藩領(新在家)・丸亀藩(興浜)・幕府領(余子浜)に分かれていました。姫路の網干港は揖保川の河口で高瀬舟や筏(いかだ)と瀬戸内海の回船によって栄えた町で、江戸時代に出された「播磨鑑(かがみ)」に「網干は福人の住む所」と書かれています。また、ここ網干は古い神社やお寺など、文化財が多く残っています。
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魚吹神社
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魚吹神社(うすき)の祭神は、息長足姫命、品陀和気命、玉依比売命。創建時期は不明。平安時代末期に石清水八幡宮の別宮となり、魚吹八幡神社と呼ばれるようになり、網干津にあるので「津の宮」とも呼ばれています。魚吹八幡神社の秋祭りは、「提灯祭り」といわれています。提灯の列が神社の楼門にさしかかったとき、互いの提灯を叩き合い「提灯練り」が始まります。若衆の叫びと群衆のどよめき、竹を打ち鳴らす音が激しさを増し、祭りは最高潮となります。
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提灯練り
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播州名物茶席の天徳山龍門寺
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鐘楼
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不生庭
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盤珪禅師(ばんけいぜんじ)が丸亀藩主・京極家の保護と網干の豪商・佐々木家の援助を受け、1661年(寛文元年)創建した寺で、播州屈指の禅宗寺院です。当時、龍門寺派の寺院は全国で約百ケ寺に及び、僧1,300人・善男善女約6,000人の参拝があり、浜田村の農家の納屋にまで泊まったと伝えられています。今でも寺内には20余の堂塔寮舎(どうとうりょうしゃ)があります。盤珪は浜田村で生まれ17歳で出家、全国を修養し、難解な禅をやさしく説き多くの信者を得ていました。1764年(明和元年)火災にあいますが、それ以前の建物も多く、17棟が姫路市指定文化財に指定され、堂内にも県や市の指定文化財が多くあります。
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不徹寺
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不徹寺(ふとくじ)は、1688年(元禄元年)嶺雲貞閉比丘尼(れいうんていかんびくに:丹波柏原生まれ、田捨女(でんすてじょ)の法号)が創建しました。当時捨女は、元禄の4俳女(女流俳人)・古今俳譜女三十六俳仙に数えられるほど高名でした。41歳の時、夫が死去。剃髪(ていはつ:頭髪を剃ること)し、浄土宗の尼僧として上京。盤珪禅師に帰依(きえ)し、網干に移り、貞閉(ていかん)に改名。66歳で死去されました。貞閉は、「貞門六俳仙(松永貞徳門下の六人の優れた俳人)」に数えられ永久に讃迎(さんぎょう:ほめたたえてあおぐこと)された女性で、郷土の誇りとして今でも伝えられています。六歳で詠んだ「雪の朝」(雪の朝、二の字二の字の、下駄のあと)の句は全国で知られています。網干に移ってからは、尼衆を指導し、不徹庵定規や盤珪説法、自伝が遺されています。特に、貞閉庵自作の歌解説の筆跡の美しさには心をうたれます。
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<田捨女の子孫>
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田捨女の子孫は、著名人も多く財界人の田艇吉(でんていきち)、枢密院(すうみついん:天皇の諮問機関)顧問官・閣僚を歴任した男爵の田健治郎、参議院議員の田英夫さんらがいる。
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盤珪禅師生誕の地・義徳院
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盤珪禅師が生まれたところです。母・尼公(にこう)が入寂(にゅうじゃく)し創建しました。
盤珪禅師の父は医師で儒者として志の高い人でしたが、禅師が11歳のとき逝去され、母一人で育てられたそうです。母・妙節尼(みょうぜつに:後に改名)は92歳までここに住まれていたそうです。戦後までは尼寺として続き「義徳庵」と称していましたが、戦後の寺訓により「義徳院」に改称。庭内には、産湯の井戸や父・兄が医師として使用した当時の医療器具も残っているそうです。 |
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丸亀藩陣屋門跡
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龍野藩主・京極家が、四国・丸亀に移封されても興浜や浜田の地は、丸亀藩の飛地となり、京極家の領地でした。この興浜の陣屋には、郡代や郡奉行が派遣され、藩の屋敷などがありましたが、1870年(明治3年)取り壊されました。この建物は老朽化した陣屋門を参考に、1987年(昭和62年)改築されたものです。
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興浜の古い町並み
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興浜公園周辺の古い町並み
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大覚寺
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古くは余子浜村にあった釈迦堂が始まりといわれています。1233年(天福元年)に真言宗の光接院に改称。1534年(天文3年)戦火により焼失。1556年(弘治2年)現在地に移り、浄土宗の大覚寺に改宗。当時、境内は東西200m、南北100mあり海に面していたそうです。国・重要文化財や兵庫県・姫路市の指定文化財も多数あり、年2回大覚寺秘宝展が開催されます。
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網干の浜辺
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なぎさ公園
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網干・ヨットハーバー
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外国人技術者住宅
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外国人技術者住宅(ダイセル異人館)は、1909年(明治42年)日本セルロイド人造絹糸㈱(現・ダイセル化学工業)網干の工場建設に当たり技術指導者として英国のジェームス・L・クリーン氏やドイツから迎えました。その宿舎として建てられました。
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境橋跡
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誠塾
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誠塾(まことじゅく)は、林田藩儒学者・河野鉄兜の弟・東馬が、1868年(慶応4年)に設立した私塾で稲香村舎(とうこうそんしゃ)とも呼ばれています。1912年(明治45年)東馬の死とともに休学。戦後再開されましたが、1963年(昭和38年)閉塾。現在、網干郷土資料館として利用されています。
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2019年7月22日月曜日
山陽電車・網干駅周辺散策コース
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