青山地区散策コース
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青山古戦場跡
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黒田官兵衛の初戦の地・青山古戦場跡です。青山合戦で官兵衛が陣取った「青山」とは、現在の下手野の「船越山」のことで、当時は「瓦山」と呼ばれていました。
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製紙組合の碑
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紙の製法は、1884年(明治17年)青山村の山口重太郎氏が大阪から伝えたそうです。明治中期~大正にかけ青山・高岡で和紙の製造が盛んになり、製紙の創始者で組合の人々の世話をして功のあった「米田勝松氏」をたたえ建立されました。
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宗全寺跡
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宗全寺(そうぜん)は、播磨国守護・山名宗全の一族や家臣の菩提を弔うために建立した寺だそうです。今も残る「青山字塔の内」は、宗全寺の五重塔が建っていたそうです。
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晋賢堂山・法燈寺跡
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法光上人が開基した「晋賢堂山(ふげん)・法燈寺」の跡と伝えられています。当時は、参拝者で大変賑わっていたそうです。
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和泉式部の腰掛石
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和泉式部が大きな岩に腰掛けて歌を詠ったといわれています。東麓に青山八景の一つを歌った歌碑があり、その岩が「和泉式部の腰掛石」と伝えられています。
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浅陰沼跡
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浅陰沼(あさかけぬま)は、稲岡山西の麓・青山公園内にありました。柿本人麻呂がこの地に住みついたとき、遠く「岩見の国(現在の島根県浜田市周辺)」にいる妻の夢をよく見られたといわれ、当時、この辺りを「妻見ケ丘」と呼ばれていたそうです。
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<柿本人麻呂の詩歌>
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「青山や あさかけ沼の みかくれに あはんとすれど 逢うよしもなし」
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人丸神社
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柿本人麻呂(万葉集の代表的な歌人で人丸(ひとまる)ともいう。)を祀っている神社で、本殿は方形造りの宝殊(ほうじゅ)を載せた珍しい屋根が特徴です。
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素麺業肇基記念碑
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素麺業肇基(はつき)記念碑は、稲岡神社の境内にあり、昭和初期まで盛んだった素麺業の昔を偲ぶために建立されたそうです。1841年(天保12年)青山に生まれた永澤治三郎は、明治20年代後半、農業の副業として素麺製造に取り組み「素麺組合」を設立し、初代組合長となりました。当時、青山北部に水車を動力とした製粉業や素麺を箱詰めする箱製造業が栄えたそうです。
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稲岡神社
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稲岡山の南麓、祭神は豊受姫大神と稲丘太神でどちらも稲の霊に関係した神様です。稲岡神社は絵馬が有名で江戸時代のものが多く、中でも「おかげ参り図」の絵馬は、1985年(昭和60年)兵庫県の指定文化財に登録されました。
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旧青山村庄屋屋敷
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青山村庄屋・菅原家は菅家の流れをくむと伝えられています。江戸時代、庄屋として継飛脚番所も差配していたそうです。幕末には、屋敷内に寺子屋「廣観黌(まなびや)」を開設しました。
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教專寺
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教專寺(きょうせんじ)の松は、本堂建立記念として植えられ「葉わけの松」と名付けられましたが、山陽道を往来する人達が変な松に気づいて振り返ることから「みかえりの松」と呼ばれていたそうです。現在の松は二代目だそうです。
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西国街道の道標
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西国街道(旧山陽道)の道標は、国道2号線・夢前橋西交差点から北へ100mのところにあり、右(北)は因州・伯州・作州・雲州方面、左(西)は備前・九州方面、東は姫路・大坂・京・江戸と、主要地までの距離も表示されています。ここを西へ、青山の中央を東西に西国街道が通り、今でも古い建物が所々に残っています。江戸時代、青山村には「継飛脚番所」があり、大坂・長崎御状箱を継送(つぎおくり)していました。この道標は、1977年(昭和52年)姫路市指定文化財に登録されました。
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夢前川
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姫路藩主・榊原忠次が、1655年(明暦元年)御立の横関に堰を築き、それまで御立から今宿に流れていた主流を直接青山に導き、現在の姿になったそうです。
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「遊びにおいで姫路へ」は、あまり紹介されたことのない姫路の観光スポットや散策コース、うまいもん、花だより、みやげ物、おいしい食べ物や工芸品の体験情報など満載です。姫路ファンの皆さんに「楽しかったわ。面白かったわ。」と100%満足していただくための「姫路観光情報ガイド」です。
2019年7月12日金曜日
路線バス・青山周辺散策コース
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