石倉峯相の里
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案内図
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2006年(平成18年)11月、「石倉峯相(いしくらみねあい)の里」開園。峯相の里は、里山の自然に触れながらの散策や登山・バーベキューが楽しめ、なだらかな斜面に広がる芝生広場や小学生の自然学習、太市の特産・筍を使った料理教室など開催。
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峯相上池
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いろり庵
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園内には、石倉の農家を復元した「いろり庵」、昭和初期の懐かしい道具や農機具などを展示した「別邸」、地元の竹で炭を作る「峯竹窯」などがあります。
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峯竹窯
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芝生公園
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「遊びにおいで姫路へ」は、あまり紹介されたことのない姫路の観光スポットや散策コース、うまいもん、花だより、みやげ物、おいしい食べ物や工芸品の体験情報など満載です。姫路ファンの皆さんに「楽しかったわ。面白かったわ。」と100%満足していただくための「姫路観光情報ガイド」です。
2019年5月20日月曜日
姫路市自然・農業・林業体験施設「石倉峯相の里」
2019年5月19日日曜日
破磐神社とご神体の「われ岩」
破盤神社
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破磐神社(はばん)は、神功(じんぐう)皇后が三韓(さんかん)征伐の帰りに、忍熊王(おしくまのみこ)の反乱にあい、船を止めて神託(しんたく)を求めたところ大己貴命(おおなむちのみこと)の神託があり、三本の矢が放たれました。その一本目は印南郡的形に、二本目は飾磨郡安室辻井に、三本目が太市郡西脇山中の大磐石(だいばんじゃく)を三つに割ったということから名付けられたそうです。この磐が「われ岩」として神社から約2km離れた場所にあります。
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ご神体の「われ岩」
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われ岩
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竹林
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2019年5月18日土曜日
子どもの公園「桜山公園」
桜山貯水池とは
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貯水池下にある旧飾磨郡余部村青山より旧揖保郡太市村に抜ける峠道の街路樹として多くの桜の木が植えられていたことから「桜峠」と呼ばれていたことに由来しています。当初は、揖保川から揚水し非常時に備える保安用として1940年(昭和15年)に着工されたが、戦時中のため、1945年(昭和20年)工事中止。1960年(昭和35年)、工業用水の需要増のため、堰堤(えんてい)の嵩(かさ)上げ工事を行い、有効貯水量446万㎥の貯水池が完成。
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桜山公園の再生
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1987年(昭和62年)、兵庫県と姫路市が貯水池周辺を「桜山公園」として再整備がスタート。8kmのハイキングコースを備えた「姫路市自然観察の森」は、四季を通じて植物・昆虫・野鳥などの観察には適しており、北岸一帯は自然観察路や野鳥観察小屋が設けられ、ネイチャーセンターのレンジャー(自然観察指導員)から動植物や自然環境などについて話を聞くこともできます。自然観察の森の東には、兵庫県立こどもの館(安藤忠雄氏設計)・姫路市立星の子館・姫路科学館(別名アトムの館)などの施設があります。特に、姫路科学館のプラネタリウムは国内最大級の直径27mのドームスクリーン、星の子館は国内最大級の90㎝反射望遠鏡と宿泊可能な児童向け天文観測施設が設けられています。
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<東から順に>
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2019年5月17日金曜日
歌舞伎でお馴染みの「弁慶地蔵」
歌舞伎でお馴染みの「弁慶地蔵」
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弁慶地蔵
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<歌舞伎「弁慶上使」あらすじ>
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歌舞伎「弁慶上使(べんけいじょうし)」は、源義経が敵方平家の重臣・平時忠(たいらのときただ)の娘「卿(きょう)の君」を妻にしたことに対し、兄・源頼朝は「平家と内通しているのでは」と疑い、妻の首を打って証明しろと命じます。ご懐妊中の「卿の君」を預かっている侍従太郎の館に、弁慶が上使(使者)として、頼朝の疑いを晴らすため「卿の君」を斬りにやって来ます。侍従太郎は、このお屋敷で働きはじめた腰元「おわさ」の娘「しのぶ」が、「卿の君」に似ていることから身替りにしようとします。しかし、「おわさ」は18年前に別れた「しのぶ」の父と会うまではと、承諾しません。「おわさ」が持っている赤い袖は、その時の男の袖でした。弁慶はいきなり「しのぶ」を刺し、自分こそが18年前の男と語り、取り交わした証拠の片袖(かたそで)を見せ、娘の首を打って身替りにたてたというお話です。
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<弁慶、一生に一度の恋の場所>
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書写山で修行していた弁慶が京へ上る途中、雨に遭い、地蔵堂で雨宿りをしていた時、通りかかった福井村の庄屋の娘「玉苗(歌舞伎では「おわさ」)」に一目惚れ、お堂で一夜を過ごし、後に娘の「しのぶ」が生まれます。ここ弁慶地蔵は、雨宿りした地蔵堂で「弁慶が一生に一度だけ恋をした」という場所です。
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2019年5月16日木曜日
国指定史跡「壇場山古墳」
壇場山古墳
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5世紀前半に築かれた前方後円墳で、墳丘(ふんきゅう)の全長は143mで、県下第2位の規模です。(兵庫県の前方後円墳で大きさが1位は神戸市垂水区の五色塚古墳、3位は篠山市東本荘の雲部(くもべ)車塚古墳)墳丘は三段築制で、周濠と部分的に周堤が残っています。後円部墳頂には縄掛け突起を有する竜山石製長持形石棺の蓋の一部が露出しています。また、墳丘上では円筒埴輪・家形・盾形などの形象埴輪も採集されています。墳形は、大阪府仲津山古墳の約2分の1の相似形で、畿内政権との密接なつながりがあったと思われます。周囲にはかって数基の陪塚がありましたが、現在、櫛之堂古墳・林堂東塚古墳の2基のみで、北西には一辺約60mの方墳・山之越古墳があります。
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1921年(大正10年)国指定史跡に指定。
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山之越古墳
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2019年5月15日水曜日
国指定史跡「播磨国分寺跡」
国分寺とは
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741年(天平13年)、聖武(しょうむ)天皇は、仏の力で天災や流行病から国を守り、平和を保つため、国ごとに国分僧寺(そうじ)と国分尼寺(にじ)を建てるよう命じられました。都には、全国の国分僧寺の総本山とも思われる東大寺(大和の国分僧寺)を建て、大仏を造り安置しました。
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播磨国分寺跡
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播磨国分僧寺は、御国野周辺は大きな古墳があり、豪族が代々住み早くから文化が発達していたこと。すぐ北を山陽道が通り、3kmほど南には継湖(つぎのみなと)という港があり、陸海ともに交通の要所であったことから御国野に建設されたといわれています。現在の牛堂山(うしどうさん)国分寺は、江戸時代に建てられたそうです。創建当時の奈良時代は、東西南北約200mもある正方形の広大な土地に、南大門・中門・金堂・講堂の他に七重の塔を備えた大きな寺で、20人の僧が住んでいたそうです。
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国史跡に指定
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この播磨国分僧寺は、国の史跡に指定され、現在は史跡公園として保存されています。
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伽藍配置
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七重の塔跡
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ここには高さ約60mの七重の塔が建っていたと考えられています。内部は、金字金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)一部が安置されていました。基壇一辺長18.9mで、約1.7m暑さの版築状の盛土が確認されています。柱間3m・3.3m・3mで、中央の間がやや広いのが特徴です。周辺から鬼板瓦や青銅製の飾金具(水煙:すいえん)の断片が出土しています。
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南大門跡
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伽藍の南に開く正門。基壇は東西14m南北10.4mで中門よりやや小振り。建物は東西三間、南北二間の八脚門と推定。
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回廊跡
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食堂と中門をつなぐ形で、東西71.3m、南北51.7mの回廊跡を発掘。基壇化粧は瓦積みで、基壇幅約7m、梁行一間の単廊と想定。
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中門跡
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東西16m、南北10.6mの基壇を確認。建物は東西三間南北二間の八脚門。
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燈籠跡
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基壇は瓦積みで直径2.4m。基壇の下には堅固な地固めの痕跡と灯籠竿部を抜き取った跡を検出。灯籠復元は東大寺大仏殿前の金銅灯籠を参考にした。
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金堂跡
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東西36.9m、南北23.4mの基壇や石製階段の痕跡などが確認された。本尊仏を安置する中心仏殿にふさわしい間口七間、奥行き四間の建物が推定される。
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復元築地塀
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北の20.1mは古代工法、南の52.5mは近代工法により復元。壁面は3㎝毎に積み上げた版築の線と堰板の木目がくっきり、屋根瓦は国分僧寺創建瓦。
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播磨国分尼寺跡
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ここから600m北に国分尼寺が建てられ、尼僧が10人いたそうですが、残念なことに詳しいことは分かっていません。遺跡といわれる所から、創建当時のものと思われる瓦が出土しています。その文様は、まことに力強く流麗で、国分僧寺の瓦の文様もほぼ同じだったそうです。
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