羽柴(豊臣)秀吉
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黒田官兵衛(孝高)の居城を譲り受けた秀吉は、西国攻めの拠点とするため築城に取り掛かります。この城は、単に土塁を築いた山城ではなく、石垣を高く積み上げた堅固な構えの3層の「望楼型天守」で烏のように真っ黒な姿をしていたそうです。1581年、西国街道で初めて天守を構えた城が完成し、その祝いに城内で「大茶会」が催されました。西国攻めの拠点・姫路城が完成した後、秀吉は備中に入り、高松城水攻めの最中に起こったのが、あの「本能寺の変(1582年6月2日)」でした。それを聞いた秀吉が、明智光秀を討つため京(姫路城経由)に向け、10日間の大移動をします。これが「中国大返し」です。この後、一気に天下人へと昇りつめたことから、姫路城は、「秀吉の出世城」と呼ばれているのです。その後、秀吉は大坂城を築き、弟・羽柴秀長、木下家定が姫路城主となりました。豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)8月18日、享年62歳で死去。
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姫路城は、秀吉の出世城
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羽柴(豊臣)秀吉築城の城は、3層の「望楼(ぼうろう)型天守」で烏(からす)のように真っ黒な姿をしていたそうです。現在の姫路城は、池田輝政が築城。
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書写山・圓教寺
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美作国境付近で戦っていた秀吉は、三木の別所氏が蜂起すると書写山圓教寺の十地坊(大講堂の横から白山権現に向かう途中にあり、標高360mの書写山の最も高い峰)に入り、戦いに備えました。
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英賀城跡
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英賀城本丸之跡碑
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英賀城は、室町時代の中頃赤松一族によって築城されました。1441年5月、城主・赤松祐尚(すけなお)が亡くなり、恋浜(現在の白浜町)の城主・三木氏がここに移り大きな城に建て替え、約140年間、東は的形から西は室津までを領土として英賀は栄えました。1580年(天正8年)1月、羽柴秀吉は三木城を落城させた後、同年2月、英賀(三木通秋)に攻め込みます。秀吉の策略に応じた三木与一兵衛ら5人が秀吉軍を城内に入れたことにより焼き討ちにあい、英賀城は一夜にして廃墟となってしまいました。1960年(昭和35年)、英賀城本丸跡石碑は英賀城本丸のあったところに建てられました。
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英賀本徳寺と亀山本徳寺
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1492~1501年(明応年間)蓮如上人の弟子・空善が建立した寺で、後に、蓮如の孫・実玄を迎え、播州浄土真宗の本拠とし、1515年(永正12年)英賀本徳寺が完成しました。その後、秀吉の英賀城攻略で焼かれ、亀山本徳寺として亀山に移されました。1928年(昭和3年)英賀村の青年団が英賀本徳寺跡に石碑「英賀本徳寺址」を建てますが、1941年(昭和16年)河川付け替えで明連寺の境内に移されました。
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英賀本徳寺址(明連寺)
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亀山本徳寺
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鶴松亭跡(丸亀藩陣屋跡)
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1580年、秀吉から揖東郡(いとうぐん)(現:姫路市網干区)1万石を与えられた官兵衛は、揖保川河口・沖之浜洲(おきのはます)の陣屋に秀吉を招待し茶会を催しました。秀吉の近くの大松に一羽の鶴が見事な巣を作っており、その優美な光景を喜んだ秀吉は、陣屋を「鶴松亭(かくしょうてい)」と名付けたそうです。
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佛日山・法輪寺
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平安時代からの由緒を持つ古寺。英賀城攻めを前に秀吉が立ち寄るとの報を受け、宝林寺(当時、宝林寺と書かれていました。)では鑵子(かんす:茶釜)一杯に湯をたぎらせ、雑兵が手を付けないようにと鑵子に蓋(ふた)をくくりつけて、秀吉の来訪を待っていた。そこへ雑兵数人を連れた軽装の秀吉が現れ、茶を所望すると住職は秀吉と気付かず、まず白湯を出しました。秀吉は「その鑵子の茶が欲しい」と言うと、傍に居た庄屋が「これは秀吉公に差し上げる茶なので、どうしても差し上げられません」と断ると、秀吉は呵呵大笑(かかたいしょう)し「我こそ秀吉である」と名乗り、住職も庄屋も仰天し平伏したそうです。秀吉は戯(たわむ)れに「今後は『湯沢山茶くれん寺』と名乗るがよい」と言い、9石9斗9升9合の朱印状を与えたと伝えられています。この頃、佛日山・法輪寺に改名。現在も境内に残るカヤの木は、秀吉来訪を記念して山主(住職)が植えたそうです。
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下記の地図でご確認ください。
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2019年10月9日水曜日
羽柴(豊臣)秀吉、姫路ゆかりの地
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