2019年6月27日木曜日

姫路城下「明治時代」体験コース

姫路城下「明治時代」体験コース

御幸通り(出発) ⇒ 第三十八銀行 ⇒ 七福亭 ⇒ 姫路市役所開庁 ⇒ 鷺城新聞 ⇒ メインストリート福中町 ⇒ あいらく園 ⇒ 日本一の機関庫(着)

御幸通り完成


1903年(明治36年)秋、明治天皇が姫路城北練兵場での観兵式で行幸されるにあたり駅前通りが建設され、「御幸」と名付けられました。それが、現在の「御幸通り」です。

第三十八銀行・竪町に開設

松竹座跡一帯
1878年(明治11年)、廃藩置県で生業をたたれた各藩士の資産保持のため、明治6年から8年まで明治政府から支給された秩禄(ちつろく)公債(給与を支払うために出した国の債務)を拠出し、伊藤長次郎、近藤薫、永田伴正、岡崎真鶴の4名が発起人となり、資本金23万円で、第三十八国立銀行を竪町(松竹座跡一帯)で設立。地場産業発展とともに成長し、1926年(昭和元年)に中呉服町に本店を新築し、1936年(昭和11年)12月、姫路銀行・五十六銀行・岡崎銀行などと合併。「神戸銀行」として本店を神戸市に移した。

演芸館「七福座」復活!!

二階町と大手前通りの交差点
明治30年頃、演劇愛好家の牛尾梅吉氏ら7名の有志が、二階町通りに(大手前通りとの交差点一帯)「演芸館•七福座」を開場。姫路初の活動写真も上映されましたが、1900年(明治33年)焼失。1903年(明治36年)、竪町に「楽天座」が開場。播州一円から客を集め賑わいましたが、昭和初期に活動写真館に転用。当館は、無声映画時代専属の音楽隊を持っていたそうです。1908年(明治41年)、城南小学校跡に活動写真専門館「白鷺館」が開場。上映の際は、クラリネットやバイオリン演奏と活動弁士で構成され、弁士の人気によって観客動員数が左右したそうです。昭和40年代、姫路市の中心市街地には、南座(駅前町)、帝劇(忍町)、白鷺館(福中町)、白鷺名画座(西二階町)、日劇(竪町)、松竹座(竪町)、大劇(十二所前町)、日活(東駅前町)、山陽座(東駅前町)、第二白鷺館(総社)の10館ありました。
2009年西二階町商店街に

姫路市役所・白銀町に開庁

中国銀行周辺
1889年(明治22年)に市制が施工。同年8月18日、白銀町(中国銀行周辺)の生田医院を借上げて姫路市役所開庁。家賃は月5円だったそうです。1897年(明治30年)北条口の新庁舎に移転しましたが、空襲で罹災。公会堂に仮住まい。1947年(昭和22年)5月本町に移転。1980年(昭和55年)現在の安田4丁目1に移転。

兵庫三大新聞・鷺城新聞

下白銀町周辺
1900年(明治33年)、下白銀町(しろがね)周辺で生田慶吉氏が創刊。後に、活版業を経営する高橋金治氏(高橋秀吉氏の父)が引継ぎ、編集方針も『真実の報道を正義とし、正義のためには権威にも屈しない』と、当時の第十師団相手に論戦、教育界の乱脈、警察の腐敗を指摘し、市民から支持を集めました。最盛期には社員72名を有し、兵庫県の三大新聞と呼ばれ、播州一円の愛読者を持っていましたが、1919年(大正8年)廃刊となりました。
<鷺城文壇>
高橋金治氏は、三木露風、有本房水、安田清風ら全国で名をはせた詩人や文学者らが投稿する「鷺城文壇」を設け、近代播磨文学史に輝かしい足跡を残しました。

福中町がメインストリート

福中町は、江戸時代から明治・大正・昭和初期まで交通の要でした。旅館や商店が軒を並べ、姫路のメインストリートとして賑わっていました。
1871年(明治4年)
「姫路郵便取扱所」開設

1873年(明治6年)
「人力車業」開業

人力車
輪タク(イメージ)
1908年(明治41年)
活動写真館「白鷺館」開業

江戸時代、交通の要所として賑わった福中町は、駕籠(かご)・人足問屋・伝馬所などが建ち並んでいました。1869年(明治2年)人力車が東京で発明され、1873年(明治6年)橋本清七氏が人力車業を福中町で開業。当時、文明開化にふさわしい交通手段として話題になり、1889年(明治22年)人力車の所有台数300台と急成長し、昭和20年代まであったそうです。これに変わったのが、輪タク(自転車タクシーのこと)業で、姫路では昭和40年代後期まで中心部を走っていたそうです。

料亭・あいらく園

忍町周辺(十二所神社西側周辺)にあった「料亭・あいらく園」、姫路藩主・本多家の下屋敷を活用した風情のある料亭で、姫路市民を始め京阪神の人達からも親しまれ繁盛しましたが、残念ながら空襲で罹災(りさい)しました。

日本一の機関庫

1903年(明治36年)、当時経営していた山陽鉄道会社が現在の姫路駅西側一帯に、全国でも珍しい洋式煉瓦造りの大機関庫を建設。完成当時は、この洋風建物を見物するために弁当持参で市民が集まったそうです。この扇型の建物には、機関車10台収容できる車庫で、機関車を出入りさせるため車庫の前に回転台が設けられていました。当時、日本一の機関庫だったそうです。
第二次大戦前、機関車が大きくなりすぎたため取り壊されたそうです。戦後、機関車がだんだんと大きくなり取り壊されました。



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