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2019年7月8日月曜日

姫路城下「旧西国街道(山陽道)」散策コース

姫路城下「西国街道」散策コース

JR播但線・京口駅
JR播但線・京口駅(出発) ⇒ 外京口門跡 ⇒ 大黒壱丁町 ⇒ 坂田町 ⇒ 元塩町 ⇒  ⇒ 二階町コース・綿町コース ⇒ 船場川 ⇒ 博労町(着) ⇒ 路線バス・白鷺橋バス停「姫路駅北口行」(乗車) ⇒ 姫路駅北口から帰路へ

西国街道(山陽道)とは

山陽道(西国街道)は、外京口門を入り、大黒町を南下、元塩町を西へ、綿町・本町を通り坂本町(船場川の一筋東)を南下し、福中町から備前門を出て、船場本徳寺の二筋東の通りを北上、龍野町を西へ向かっていましたが、築城から20年、姫路城の濠に泥土(ういじ)が堆積し、濠浚(さら)えが行われました。坂本町周辺の山陽道は、浚え上げられた泥土でぬかるみ通行の妨げとなりました。それ以来、人馬は一筋南の二階町を利用するようになったそうです。
本来、山陽道は、外京口門と龍野町を直線的に結ぶラインが従来の山陽道ではなかったかと推測されています。このままだと、城郭の中心を通過することになるため、山陽道は付け替えられました。付け替えることによりできた空間を重臣が住む武家地とし、中濠は大手に入れないよう南に延伸しました。
山陽道は西国街道とも呼ばれ、五街道以外の脇街道でしたが、江戸時代の主要街道の一つで重要性の高い街道でした。山陽道が城下を通過したことで、姫路は宿場町として、参勤交代の大名や旅人の通行・宿泊の場所として大変賑わいました。
姫路城下古道界隈より

城下・西国街道散策コース

播但線・京口駅スタート
西国街道と外濠(外京口門跡)
国道372号線手前
大黒壱丁町・おくだ前南下
坂田町・国道2号線
アシヤ印刷を元塩町へ

【綿町コース】
市民会館前通り北上
板文駐車場を西、「綿町」へ
大手前通り横断し、本町・坂本町
船場川東側を南下


【二階町コース】
市民会館前通り南下
二階町商店街へ
大手前通り横断
西二階町商店街へ


二階町・綿町コース合流
船場川・産業道路横断
一筋目・博労町を北上


2019年7月3日水曜日

姫路城下「寺町」散策コース

姫路城下「寺町」散策コース

正明寺(出発) ⇒ 妙立寺 ⇒ 妙善寺 ⇒圓光寺 ⇒ 本領寺 ⇒ 法華寺 ⇒ 妙國寺 ⇒ 大法寺 ⇒ 妙行寺 ⇒ 圓證寺 ⇒ 善導寺 ⇒ 正法寺 ⇒ 妙圓寺 ⇒ 帰路へ

寺町とは

寺町は、戦いになると武士たちが寺に立てこもり、一カ所から侵入してくる敵を待ち伏せし有利に戦うため、城下や周辺から寺院を強制的に集め戦力的に建てたそうです。ここ寺町は、現在の五軒邸から南へ坂田町、平野町の3町まで、中濠の京口門跡から東へ約100mです。北から順に、正明寺(五軒邸)、妙立寺(五軒邸)、妙善寺(五軒邸)、圓光寺(五軒邸)、本領寺(五軒邸)、法華寺(五軒邸)、妙國寺(五軒邸)、大法寺(五軒邸)、妙行寺(坂田町)、圓證寺(坂田町)、善導寺(坂田町)、正法寺(平野町)、妙圓寺(平野町)の13ケ寺が建ち並んでいます。

正明寺

天台宗の寺院。
姫路市五軒邸2-88

妙立寺

妙立寺(みょうりょう)は、顕本法華宗妙満寺派。1604年(慶長9年)池田輝政の町割りで遠州吉美郷から移転。
姫路市五軒邸2-85

妙善寺

姫路市五軒邸2-29

圓光寺

姫路市五軒邸2-12

本領寺

姫路市五軒邸1-72

法華寺

法華寺は、日蓮宗本圀寺派。1602年(慶長7年)池田輝政の町割りで三木から移転。千姫の位牌堂を城内から移築しましたが、戦災で焼失。
姫路市五軒邸1-58

妙國寺

姫路市五軒邸1-30

大法寺

姫路市五軒邸1-15

妙行寺

姫路市坂田町153

圓證寺

姫路市坂田町120

善導寺

1602年(慶長7年)池田輝政の町割りで梛本(なぎもと:東高校付近)から坂田町に移転。浄土宗のお寺で、境内の笠塔婆は、市内で2番目に古いものだそうです。
姫路市坂田町5

正法寺

姫路市平野町58

妙圓寺

姫路市平野町3



2019年7月2日火曜日

姫路城下「外濠川」散策コース

姫路城下「外濠川」散策コース

姫路城外濠跡碑(出発) ⇒ 竹之門跡 ⇒ 外京口門跡周辺 ⇒ 北條門跡 ⇒ 三左衛門堀 ⇒ 運河公園(着)

外濠川とは

江戸時代の絵図によると、外濠は両面に石垣を積む箱濠で幅約14m、石垣の高さ約3.5m、濠の内側には土塁があったそうですが、明治時代に外濠の東部を除いて大半が埋められ、土塁も取り壊されました。東部の外濠は、1873年(明治6年)から始まった生野鉱山寮馬車道建設で埋められ、濠幅は半減しました。姫路市は、1994年(平成6年)度から「外堀川環境整備事業」を行い、姫路城の外濠を普通河川として整備。2010年(平成22年)、外濠公園内で実施した発掘調査で、姫路城の外濠の遺構が史料通り残っていることが確認されました。この外濠川の散策は、堀留町から三左衛門堀まで、約5㎞のコースです。

野里堀留町(ほりどめ)

姫路城外濠跡碑
姫山北東から発した姫路城の濠は、左回りの螺旋状に内濠(2,970m)・中濠(4,323m)・外濠(5,232m)と3つの濠が続き、濠の総延長は12,525mあります。この濠の最終地点がここ「野里堀留町」です。

竹之門跡

竹之門絵図
竹之門の造りは、枡形や喰い違いのない簡単な造りでした。建物も単門で、由来は鬼門にあたるため「他家=竹」の門と命名されたそうです。この付近には、濠の跡が残っていますが、遺構は残っていません。(竹之門交差点)

外京口門跡周辺

外京口門絵図
濠の側面に引き込んだ特異な桝形。幅広い土橋は、1625年(寛永2年)の洪水で流失し、その後、木造で作られました。外京口門は、京都方面に向かって開かれていることから名付けられました。遺構は残っていません。(東光中学校・体育館)
河合橋
河合惣兵衛邸跡
下寺橋
外濠公園
河合惣兵衛の碑石

北條門跡

北條門絵図
北條門の土橋は長く喰違いに造られています。これは、敵に横矢を放つためのものです。城門は、二重の隅櫓が建てられています。北条方面に向かって開かれていることから名付けられました。遺構は残っていません。(巽橋交差点南

三左衛門堀

三左衛門堀は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの戦功により、播磨52万1千石の領主となり、濠を建設した「池田三左衛門輝政」の名に因んで名付けられました。輝政は、姫路城の築城と姫路から飾磨津(姫路港)までの間に海防と水運を兼ね、姫路城下の経済的発展を目的に、市川の旧水路を利用し開削を進めたが、工期半ばに輝政は亡くなり、濠工事は中止されました。残った約2kmの濠を1974年(昭和49年)、二級河川・外濠川として全面改修されました。

運河公園

約5kmの外濠川の散策は、歩くことに自信のある方は別として、姫路駅周辺のレンタサイクルを利用されることをお勧めします。散策中は、くれぐれも、交通ルールを守り、車には気をつけて下さい。