2019年10月4日金曜日

二刀流の剣豪「宮本武蔵」

宮本武蔵

江戸時代初期の二刀流「二天一流剣法」の剣豪で画家。母の家を継ぎ、宮本武蔵義恒または玄信(政名)と名乗った。13歳の時、佐用町平福で新当流・有馬喜兵衛との初決闘で勝利。以後、巌流島の佐々木小次郎との決闘など生涯60回以上の決闘に一度も負けたことがないと伝えられている。その後、姫路藩主・本多忠刻と交流。姫路や明石等の城や寺院を作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)。この時期に夢想権之助(神道夢想流開祖)と明石で決闘。また、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子に迎え、姫路藩主・本多忠刻に出仕させている。晩年は、肥後藩主・細川忠利に仕えた。自著「五輪書」は武道の奥義を記した兵法書として有名。国の重要文化財に指定された「鵜図」、「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」、「紅梅鳩図(こうばいはとず)」をはじめ、水墨画・鞍・木刀などの工芸品も各地の美術館に収蔵されている。1645年(正保2年)5月19日千葉城の屋敷で死去、享年62歳。
姫路城の守り神・刑部神社
姫路城の伝説
木下家定が城主の頃、姫路に立ち寄った宮本武蔵が名前を隠し足軽奉公をしていました。そのころ、姫路城に妖怪が出るという噂がありましたが、武蔵は平気で夜の出番を勤めていました。それが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られてしまいました。木下家の客分となった武蔵に、妖怪退治の命が下りました。武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に向かいます。3階にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動が・・・武蔵が太刀に手をかけると、辺りは元の静けさに戻りました。4階でもまた同じことがありましたが、構わず天守に登り、明け方まで番をしていたところ、美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神・刑部明神なり。その方が今宵(こよい)参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消しました。武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたということです。
姫路城から抜粋

宮本武蔵
生誕1584年 ⇒ 死去1645年 享年62歳


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