2019年5月5日日曜日

姫路船場別院・轉亀山本徳寺(船場御坊)

姫路船場別院・轉亀山本徳寺

東本願寺(真宗大谷派)の別院で、正式には「姫路船場別院・轉亀山(てんきざん)本徳寺」といい、地元では「船場御坊さん」と呼ばれています。1602年(慶長7年)本願寺東西分立により、本徳寺は東本願寺に帰属しますが、姫路藩主・池田輝政の時、西本願寺に転派します。1618年(元和3年)、播磨国に東本願寺の再興を姫路藩主・本多忠政に願い、翌年、池田組屋敷100間四方の土地が寄進され、13間四面の本堂が建立されました。これが姫路・船場本徳寺の創建です。1663年(寛文3年)東本願寺から「別院」の称号が付与されます。以後、二度の失火と戦災にあいましたが、本堂は免れました。現在の本堂は、1718年(享保3年)に再建されたものです。
姫路船場別院・轉亀山本徳寺
姫路市地内町1

播磨門徒の信仰の中心

この本徳寺建立により、播磨門徒の信仰の中心としてその重要性を高め、姫路の船場地区の繁栄に大きく貢献しました。1873年(明治6年)勧開中学校(旧制姫路中学校、現在の県立姫路西高等学校)の開校、1887年(明治20年)崇徳(すうとく)学校開設(児童数360名に達す)など、教育の発展にも寄与しました。境内には、薬師山から移した勤王の志士の墓石や西南の役記念碑があります。

市指定重要文化財

2006年(平成18年)3月船場本徳寺の本堂・表門・鐘楼・大玄関の4棟が姫路市指定重要文化財に指定されました。
山門(表門)
大玄関

姫路駄菓子(油菓子)

姫路藩家老の河合寸翁は、藩を財政再建させるため藩政改革や農工業の振興を進め、木綿や小麦粉、菜種油、砂糖など諸国の物産を姫路に集め、商業・物流の振興に力を入れていました。姫路で「和菓子づくり」が盛んになったのは、姫路藩主・酒井家と家老・河合寸翁が茶人であったからといわれています。産業振興の一環として菓子職人を江戸や京都・長崎にまで派遣し、製造技術を習わせ、この職人たちの持ち帰った技術が「姫路の菓子づくりの原点」といわれています。姫路菓子を特色づけるものとして「油菓子(かりんとう)」があります。油菓子は、ポルトガル・オランダ船により、長崎に伝えられ全国各地に広がったといわれています。姫路藩・家老・河合寸翁の政策のもと、各地から集まった良質の小麦粉や菜種油等を使った「姫路駄菓子(油菓子のこと)」は、全国にその名を馳せるようになりました。これは、昭和初期まで続き、姫路の船場本徳寺の表門前には、姫路駄菓子の店、数十軒が軒を連ね大変賑わったそうです。しかし、第二次世界大戦の空襲で船場本徳寺周辺は焼失してしまいました。
船場御坊・山門(表門)前
姫路菓子製造組合碑

姫路楽市復活!!

姫路・船場地域の活性化を目的に、地元の人たちが協力し、秀吉がこの地で始めたといわれている「姫路楽市」を船場御坊で復活!!
船場御坊楽市
<開催日>
3・5・7・9・12月の第1日曜日
<開催時間>
9時~13時

姫路船場別院本徳寺御修復事業

第1期「大玄関・修復工事」
2018年10月~2022年3月まで
第2期「山門(表門)・修復工事」
2022年4月~2025年3月まで
第3期「本堂・修復工事」
2025年4月~2032年3月まで
御修復諸懇志のお願い


0 件のコメント:

コメントを投稿