1580年、豊臣秀吉から揖東郡(いとうぐん、現:姫路市網干区)1万石を賜(たまわ)った官兵衛は、揖保川河口・沖之浜洲(おきのはます)の陣屋に秀吉を招待し茶会を催しました。茶会の当日、秀吉の近くの席の大松に一羽の鶴が見事な巣をかけており、その優美な光景を大いに喜んだ秀吉は、以降陣屋の名を「鶴松亭(かくしょうてい)」と呼ぶように命じたそうです。
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青山古戦場跡と瓦山
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青山古戦場跡
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黒田官兵衛の初戦の地・青山古戦場(姫路市青山)です。青山合戦で官兵衛が陣取った「青山」とは、現在下手野にある「船越山」のことで、当時は「瓦山(姫路市下手野)」と呼ばれていました。
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瓦山(現:船越山)
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書写山・圓教寺
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美作国境付近で戦っていた秀吉は、三木の別所氏が蜂起すると書写山圓教寺の十地坊(大講堂の横から白山権現に向かう途中にあり、標高360mの書写山の最も高い峰)に入り、戦いに備えました。
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實貞山・心光寺
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黒田家の菩提寺。黒田家の菩提寺で黒田官兵衛の母、心光寺殿長寿大姉の院号を取って「心光寺」と名付けられたそうです。
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廣峯神社と御師屋敷跡
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備前の福岡(現:岡山県瀬戸内市)からこの地にきた黒田官兵衛の祖父・重隆(しげたか)は、御師屋敷に寄宿(きしゅく)し、一族に伝わる目薬を売り、財を築き、当時姫路を治めていた小寺政職(まさもと)に仕えました。ここ広峯神社は、黒田家の起源ともいえる特別な場所なのです。
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増位山・随願寺
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官兵衛の叔父・黒田高友は僧「休夢(きゅうむ)」として増位山の地蔵院に出家。茶人と和歌に優れ、秀吉に御伽衆(おとぎしゅう)として仕え、茶会にも招かれました。
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播磨国総社
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1567年、職隆が老朽化していた拝殿・神前御門板葺から瓦葺に再建し、1577年6月11日の「一ツ山祭」が執行されました。1580年9月揖東群において、官兵衛が一万石の大名に列せられた時、黒田家の旗印を制定し、総社で祈祷を受けたそうです。1584年、更に制札を与え、総社の保護に努めました。
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姫路城
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1561年(永禄4年)黒田職隆が姫路城を改築。1580年、羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高、城を秀吉に献上。秀吉は3層の天守閣を築く。現在も秀吉時代の野面積石垣が残っている。
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黒田二十四騎とは
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黒田官兵衛の優れた側近のことで、井上九郎右衛門、小河信章、菅正利、衣笠景延、桐山信行、久野重勝、黒田一成、栗山善助、黒田利高、黒田利則、黒田直之、毛屋武久、後藤又兵衛、竹森次貞、野口一成、野村祐勝、林直利、原種良、堀定則、益田正親、三宅家義、村田吉次、母里太兵衛、吉田長利の24名です。大河ドラマ「軍師・官兵衛」では、井上九郎右衛門には「高橋一生」さん、後藤又兵衛には「塚本高史」さんが演じられていました。
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母里太兵衛生誕の地
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母里太兵衛(もり・たへえ)は、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み取ったことで知られる日本一の酒豪です。母里太兵衛は、黒田二十四騎の一人で、大河ドラマ「軍師・官兵衛」では「速水もこみちさん」が演じられていました。
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栗山利安生誕の地
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栗山利安(四郎右衛門、通称:善助)は、1579年有岡城(伊丹市)から官兵衛を助け出し、1600年には大坂から光圓(如水夫人)、ねね姫(長政夫人)救出で活躍し、1551年ここ栗山町で生まれました。栗田善助は、黒田二十四騎の一人で、大河ドラマ「軍師・官兵衛」では「濱田岳さん」が演じられていました。
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下記の地図でご確認ください。
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