野里について
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JR播但線・野里駅
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野里について
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「播磨国風土記」では、大野(荒野のことを大野という)の里と呼ばれ、後に、大野里を略して「野里」と呼ばれるようになったそうです。中世は、大日から日吉神社までの地域をさし、金屋町・橋之町周辺には、西国街道の宿場として「白井の宿」がありました。その頃、農具や鍋・武具などを作っていた豪族・芥川家(鋳物師惣管職)が大きな勢力を持っていました。1578年、豊臣秀吉が中国征伐で姫路に入国、但馬街道沿いを基盤にした城下町がつくられました。池田輝政の新しい町割りにより、野里は「外町」として、鍛冶職を中心に職人が集まり、北播磨・但馬方面からの物資集散の地、随願寺の門前町として栄えました。
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明珍火箸本舗
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明珍火箸は、19世紀のはじめ甲冑師がその技術を生かして火箸を作ったことが始まりです。火箸の型は、約20種類あり、代表的なものはツクシ型、ツヅミ型、ワラビ型、カワクギ型の4種類です。最近では、火箸を利用して風鈴が作られていますが、火箸が触れ合ったときに奏でる澄みわたった音色は、日本的な風流を兼ね備えた逸品です。1993年(平成5年)兵庫県指定の伝統的工芸品に指定されています。
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日吉神社
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野里の古い町並み
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大野町周辺の古い町並み
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固寧倉
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1809年(文化6年)飾西郡町村組大庄屋らが飢饉や災害などの非常時に備えるため穀物を貯える倉庫の建設を当時の家老・河合寸翁に建議、藩主・酒井忠道がこれを取り上げ、領内に米麦貯蔵用倉庫「固寧倉(こねいそう)」が設けられたのが始まりです。1846年(弘化3年)288ヶ所に設けられたそうです。現在野里を含め飾磨・東山・中村・刀出の五ヶ所が残るのみです。
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慶雲寺
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1443年天台宗として創建。1577年南景和尚により臨済宗に改宗。宗夢(そうむ)童子像は姫路市の文化財に指定されています。境内には、光正寺から移された「お夏・清十郎」の霊を祀った比翼塚(ひよくづか:相愛の男女を一緒に葬った墓)があり、お夏・清十郎を想う市民や観光客が今でも訪れています。
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芸能のお寺・光正寺
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慶雲寺の塔頭(たっちゅう)は4ケ寺ありましたが、本寺のみ現存。慶雲寺の観音堂として隣に建っています。南景和尚によって播磨西国三十三ケ所の観音霊場が設定され、当寺は五番霊場です。本尊の如意輪観世音(にょいりんかんぜおん)は鎌倉時代の作といわれ、池田輝政後室・督姫(とくひめ:家康の次女)の念持仏と伝えられています。また、ここ光正寺の玉垣には江戸末期・大阪の歌舞伎役者・二代目・尾上多見蔵(おのえたみぞう)ら高名な歌舞伎役者の名前も見られます。お夏・清十郎が歌舞伎で上演されたことから、当時、江戸や大阪の著名な演劇や舞踊の関係者が多く参詣に来られていたそうです。
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雲松寺
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随願寺の末寺といわれ、開基は不明。当初は臨済宗でしたが、寛文年中に黄檗宗(おうばくしゅう)に改宗。山門には実伝の師・木庵(もくあん)の扁額(へんがく)がある。境内には、本堂のほか位牌堂(いはいどう)、経堂(きょうどう)、地蔵堂などがあり、境内も美しく整備されています。また、境内にある北向地蔵は、安産・足腰の痛みにご利益があるといわれています。
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ノコギリ横丁跡
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道路脇がノコギリ状で家屋もそれに沿って立つ街並みのことで、金屋町・八木町・福居町・橋之町・福本町・米屋町界隈で今も残っています。
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「遊びにおいで姫路へ」は、あまり紹介されたことのない姫路の観光スポットや散策コース、うまいもん、花だより、みやげ物、おいしい食べ物や工芸品の体験情報など満載です。姫路ファンの皆さんに「楽しかったわ。面白かったわ。」と100%満足していただくための「姫路観光情報ガイド」です。
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