廣峯・増位連山周辺散策コース
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廣峯神社
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廣峯神社は、今より二千有余年前、崇神(すじん)天皇の御代に素盞鳴尊(すさのおのみこと)とその御子神で植樹の神様である五十猛尊(いそたけるのみこと)が白幣山に鎮座したと伝えられています。
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檀那も播磨国だけではなく、摂津・但馬・丹波・備前・因幡・美作・丹後などの周辺諸国におよび、いつのころからか、伊勢参詣(さんけい)の後は必ず廣峯社にも参詣しなければならない「廣峯詣」の風習が生まれたそうです。
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<黒田家起源の地>
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備前の福岡(現:岡山県瀬戸内市)からこの地にきた黒田官兵衛の祖父・重隆(しげたか)は、御師屋敷に寄宿(きしゅく)し、一族に伝わる目薬を売り、財を築き、当時姫路を治めていた小寺政職(まさもと)に仕えました。ここ広峯神社は、黒田家の起源ともいえる特別な場所なのです。
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<御師屋敷>
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廣峯神社の近くには御師(おし:信者のために祈祷や参拝の世話・案内をする人)が住む御師屋敷(おしやしき)があり、摂津や丹波・備前・備中・美作・因幡などの檀家が、参拝する際に宿泊した施設だそうです。
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増位山・随願寺
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増位山・随願寺は、姫路市最古のお寺です。聖徳太子の命により、高麗僧・恵便(えべん)が開山し、後に行基が中興しました。当初は、法相宗(ほうしょうしゅう)でしたが、承和元年に天台宗に改宗。播磨六山の一つで、多くの貴族や武士の信仰が厚かった寺です。平安時代に諸堂が整備され、山上には36坊ある大寺院でしたが、1573年(天正元年)別所長治に攻められ全山を焼失。一時他所に移りますが、1586年(天正14年)秀吉により再興されました。本格的な再興は、江戸時代になってからで、姫路藩主・榊原忠次が菩提寺として再建・整備を行った。境内には、池田輝政の供養塔や榊原忠次墓所、榊原政邦の墓と側室・実相院の墓などがある。
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常行三昧堂(ざんまいどう)
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常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)とは、天台宗において四種三昧のうち常行三昧の行を修するために建てられた仏堂で、常行堂(念仏堂)ともいわれています。播磨西国三十三ケ所の札所で、芭蕉ゆかりの簑と笠が保存されています。
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新・旧風羅堂跡
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播磨における蕉風俳諧の道場で、芭蕉の別名「風羅坊」からとったもので、当初は念仏堂裏の太子谷に芭蕉の弟子「井上千山(せんざん)」の子「寒爪(かんか)」が建て、芭蕉像をまつり、蓑笠(みのかさ)を安置しました。1793年(寛政5年)寒爪の子孫らによって増位川の西に建て替えられましたが、1874年(明治4年)消失しました。現在この場所には、蓑塚の石碑が立っています。また、旧風羅堂跡には姫路藩主・酒井忠恭(ただずみ)「はせを葉や風にやれても名は幾世」の句碑が立っています。
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播磨四ノ宮・白国神社
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稲背入彦命を祖とする白国氏三代目・阿曽武命の妻・高富姫命がお産で苦しんだ時、神吾田津姫命の加護により阿良津姫を安産されました。そこでこの神吾津姫命をまつり、お産の神様として崇敬されています。
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「遊びにおいで姫路へ」は、あまり紹介されたことのない姫路の観光スポットや散策コース、うまいもん、花だより、みやげ物、おいしい食べ物や工芸品の体験情報など満載です。姫路ファンの皆さんに「楽しかったわ。面白かったわ。」と100%満足していただくための「姫路観光情報ガイド」です。
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