2019年6月30日日曜日

姫路城下「江戸時代」体験コース

姫路城下「江戸時代」体験コース

切手・木綿会所跡(広島銀行前 出発) ⇒ 西国街道(二階町) ⇒ 国府寺本陣跡 ⇒ 高札場跡 ⇒ お夏さん実家跡 ⇒ 那波・三木脇本陣跡 ⇒ 船場川 ⇒ 備前門跡 ⇒ 船着場・大蔵前 ⇒ 勤皇志士終焉の地(大蔵前公園着)

姫路藩名家老•河合寸翁

切手・木綿会所跡
姫路市綿町128広島銀行
財政難に苦しんでいた姫路藩主•酒井家は、家老・河合寸翁に藩の立直しを命令。寸翁は、姫路の特産だった木綿に目を付け、姫路藩が独占して江戸へ直接送れる木綿の専売権を幕府に認められました。寸翁は、藩内に「木綿会所」と藩札の発行ができる「切手会所」を綿町(写真:広島銀行姫路支店)に設けました。また、質株に課税するため「質屋会所」を竪町に設け、藩内に質屋金融を広く普及させました。このような多才な政策を編み出し、藩の立直しに貢献しました。
<姫路木綿とは>
当時、船場川の水でさらした木綿を船場川の別名、玉川にちなんで「姫玉(ひめたま)」と呼ばれていました。この姫玉は、江戸をはじめ奥羽(おうう、現在の東北地方)まで評判が広がり、姫路藩の木綿産業は発展し、酒井時代には綿町周辺に木綿問屋が軒を並べました。1911年(明治44年)、明治天皇ご来姫のとき、「高砂染」を献上しました。

京に通じた西国街道

旧西国街道(二階町)
当時、西国街道は山陽道又は中国路とも呼ばれていました。江戸を起点する五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道のこと)と脇街道があり、西国街道は、京から下関に向かう脇街道でしたが、五街道に次ぐ重要な街道でした。この街道を参勤交代の大名が利用し、姫路は宿場町としても賑わいました。明治以降は、鉄道や国道2号線など新しい交通体系が整備され、その役割も終えました。

藩公認の宿・国府寺本陣跡

国府寺本陣跡
本陣とは、大名や幕府の役人、勅使が宿泊していた、いわば藩公認の宿のことです。国府寺本陣(こうでら)は、現在の二階町と大手前通りの交差点北側周辺に建っていました。

高札場跡

高札場(こうさつば)は、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目を引くように高く掲げた場所のことです。姫路藩の場合、姫路城の大手にあたる中之門筋と重要な公儀の道・西国街道の交差した角に設けられていました。

お夏清十郎物語のお夏さんの生家跡

お夏の生家「但馬屋」跡周辺
お夏・清十郎物語は、1662年(寛文2年)姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした文芸作品。1625年(寛永2年)、姫路の米問屋(旅籠屋ともいわれている。)「但馬屋」に奉公していた室津の造り酒屋の息子・清十郎が、米問屋の主人に刀を振り重傷を負わせる事件が起きました。身分の違う者同士が結ばれない時代に米問屋の娘・お夏と恋仲になったことが原因でした。清十郎は、お夏の「かどわかし(誘拐の意味)」に加え、店の金持ち逃げの罪を着せられました。この騒動を知った当時の姫路藩主・榊原忠次は、同じような事件が二度と起きないようにと清十郎を打ち首の刑に処しました。その処分をきっかけに清十郎を忘れきれないお夏は「清十郎さま殺さば、お夏も殺せ」と半狂乱で叫び、髪を振り乱して裸足で城下を歩き回ったそうです。この悲劇は、さまざまな小唄に歌われ、全国各地に知れ渡り、井原西鶴の小説「好色五人女」の「姿姫路清十郎物語」や近松門左衛門の戯曲「五十年忌歌念仏」の「お夏と清十郎」の物語となりました。そのお夏の生家「但馬屋(中門筋と西国街道の交差点の北側一帯)」がこの周辺にありました。

那波・三木脇本陣跡

那波脇本陣跡
三木脇本陣跡
脇本陣とは、大名のお供が多くて本陣に宿泊できないときに予備にあてた宿のことです。場所は、三木脇本陣が西二階町と中門筋との交差点周辺、那波脇本陣が西二階町と竪町筋との交差点北側周辺に建っていました。

高瀬舟が行き来した船場川

城主•本多忠政公が船場川を改修し、城下から飾磨港へ通じる舟運を開いたのをキッカケに「船場川」と呼ばれました。船場川を上下する高瀬舟は、江戸や大阪から飾磨港に運ばれてきた、米•薪•炭•塩などを城下に運び、姫路木綿を飾磨港から江戸・大阪へ運んでいました。この高瀬舟は、昭和4年まで運行していたそうです。
高瀬舟(イメージ)

備前門橋跡

車門同様に二重の濠に面し、中・外濠の区別も明確になっていません。備前門の由来は、西国街道の西の出入口として備前方面に向かっていることから名付けられました。備前門の遺構は残っていません。備前門の前、船場川に架かっていたのが備前門橋です。

船着場と大蔵前

大蔵前(大蔵前公園一帯)
江戸や大阪から飾磨港に運ばれて来た生活物資を、船場川を往来していた高瀬舟で運び積み降ろしする「船着場」、その物資を保管する蔵が、船着場周辺に建ち並んでいたことから「大蔵前」(現在の大蔵前公園一帯)と呼ばれていました。

勤皇志士終焉の地

勤皇志士終焉の地碑
尊王攘夷活動家・河合惣兵衛(姫路藩士)と行動を共にし、脱藩した養子・河合伝十郎(24歳)と江坂栄次郎(22歳)ら8名は、1864年(元治元年)12月処刑された。1916年(大正5年)もと藩の獄舎跡のこの地に記念碑が建てられた。大戦後、一時撤去されるが、1968年(昭和43年)復元された。
姫路市塩町236大蔵前公園



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