姫路城下「江戸時代」体験コース
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姫路藩名家老•河合寸翁
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切手・木綿会所跡
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財政難に苦しんでいた姫路藩主•酒井家は、家老・河合寸翁に藩の立直しを命令。寸翁は、姫路の特産だった木綿に目を付け、姫路藩が独占して江戸へ直接送れる木綿の専売権を幕府に認められました。寸翁は、藩内に「木綿会所」と藩札の発行ができる「切手会所」を綿町(写真:広島銀行姫路支店)に設けました。また、質株に課税するため「質屋会所」を竪町に設け、藩内に質屋金融を広く普及させました。このような多才な政策を編み出し、藩の立直しに貢献しました。
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<姫路木綿とは>
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当時、船場川の水でさらした木綿を船場川の別名、玉川にちなんで「姫玉(ひめたま)」と呼ばれていました。この姫玉は、江戸をはじめ奥羽(おうう、現在の東北地方)まで評判が広がり、姫路藩の木綿産業は発展し、酒井時代には綿町周辺に木綿問屋が軒を並べました。1911年(明治44年)、明治天皇ご来姫のとき、「高砂染」を献上しました。
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京に通じた西国街道
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旧西国街道(二階町)
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当時、西国街道は山陽道又は中国路とも呼ばれていました。江戸を起点する五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道のこと)と脇街道があり、西国街道は、京から下関に向かう脇街道でしたが、五街道に次ぐ重要な街道でした。この街道を参勤交代の大名が利用し、姫路は宿場町としても賑わいました。明治以降は、鉄道や国道2号線など新しい交通体系が整備され、その役割も終えました。
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藩公認の宿・国府寺本陣跡
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国府寺本陣跡
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本陣とは、大名や幕府の役人、勅使が宿泊していた、いわば藩公認の宿のことです。国府寺本陣(こうでら)は、現在の二階町と大手前通りの交差点北側周辺に建っていました。
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高札場跡
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高札場(こうさつば)は、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目を引くように高く掲げた場所のことです。姫路藩の場合、姫路城の大手にあたる中之門筋と重要な公儀の道・西国街道の交差した角に設けられていました。
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お夏清十郎物語のお夏さんの生家跡
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お夏の生家「但馬屋」跡周辺
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お夏・清十郎物語は、1662年(寛文2年)姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした文芸作品。1625年(寛永2年)、姫路の米問屋(旅籠屋ともいわれている。)「但馬屋」に奉公していた室津の造り酒屋の息子・清十郎が、米問屋の主人に刀を振り重傷を負わせる事件が起きました。身分の違う者同士が結ばれない時代に米問屋の娘・お夏と恋仲になったことが原因でした。清十郎は、お夏の「かどわかし(誘拐の意味)」に加え、店の金持ち逃げの罪を着せられました。この騒動を知った当時の姫路藩主・榊原忠次は、同じような事件が二度と起きないようにと清十郎を打ち首の刑に処しました。その処分をきっかけに清十郎を忘れきれないお夏は「清十郎さま殺さば、お夏も殺せ」と半狂乱で叫び、髪を振り乱して裸足で城下を歩き回ったそうです。この悲劇は、さまざまな小唄に歌われ、全国各地に知れ渡り、井原西鶴の小説「好色五人女」の「姿姫路清十郎物語」や近松門左衛門の戯曲「五十年忌歌念仏」の「お夏と清十郎」の物語となりました。そのお夏の生家「但馬屋(中門筋と西国街道の交差点の北側一帯)」がこの周辺にありました。
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那波・三木脇本陣跡
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那波脇本陣跡
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三木脇本陣跡
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脇本陣とは、大名のお供が多くて本陣に宿泊できないときに予備にあてた宿のことです。場所は、三木脇本陣が西二階町と中門筋との交差点周辺、那波脇本陣が西二階町と竪町筋との交差点北側周辺に建っていました。
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高瀬舟が行き来した船場川
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城主•本多忠政公が船場川を改修し、城下から飾磨港へ通じる舟運を開いたのをキッカケに「船場川」と呼ばれました。船場川を上下する高瀬舟は、江戸や大阪から飾磨港に運ばれてきた、米•薪•炭•塩などを城下に運び、姫路木綿を飾磨港から江戸・大阪へ運んでいました。この高瀬舟は、昭和4年まで運行していたそうです。
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高瀬舟(イメージ)
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備前門橋跡
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車門同様に二重の濠に面し、中・外濠の区別も明確になっていません。備前門の由来は、西国街道の西の出入口として備前方面に向かっていることから名付けられました。備前門の遺構は残っていません。備前門の前、船場川に架かっていたのが備前門橋です。
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船着場と大蔵前
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大蔵前(大蔵前公園一帯)
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江戸や大阪から飾磨港に運ばれて来た生活物資を、船場川を往来していた高瀬舟で運び積み降ろしする「船着場」、その物資を保管する蔵が、船着場周辺に建ち並んでいたことから「大蔵前」(現在の大蔵前公園一帯)と呼ばれていました。
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勤皇志士終焉の地
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勤皇志士終焉の地碑
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尊王攘夷活動家・河合惣兵衛(姫路藩士)と行動を共にし、脱藩した養子・河合伝十郎(24歳)と江坂栄次郎(22歳)ら8名は、1864年(元治元年)12月処刑された。1916年(大正5年)もと藩の獄舎跡のこの地に記念碑が建てられた。大戦後、一時撤去されるが、1968年(昭和43年)復元された。
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「遊びにおいで姫路へ」は、あまり紹介されたことのない姫路の観光スポットや散策コース、うまいもん、花だより、みやげ物、おいしい食べ物や工芸品の体験情報など満載です。姫路ファンの皆さんに「楽しかったわ。面白かったわ。」と100%満足していただくための「姫路観光情報ガイド」です。
2019年6月30日日曜日
姫路城下「江戸時代」体験コース
2019年6月28日金曜日
姫路城下「大正・昭和時代」体験コース
姫路城下「大正・昭和時代」体験コース
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姫路仲買市場開設の地
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大正初期、中壕沿いの坂元町一帯に青果7件、海産物4件の仲買市場が開かれていました。ピーク時は、福中町まで業者が増え、大正末期には80軒を超え、姫路海産物青果組合が結成されました。昭和初期になると坂元町も狭くなり、久保町・京口などの新設市場街へと分散しました。現在でも、市場跡が残っています。
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中壕は国道、外濠は鉄道に
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外濠だったJR姫路駅
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中濠だった国道2号線
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外濠は鉄道の開通、中壕は1932年(昭和7年)国道2号線に。それまで、残っていた濠ですが、時代の要請から次々と埋め立てられました。国道2号線には「中濠埋立之碑」が建てられています。
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中濠埋立之碑
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大手前通り完成
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姫路城下の大手筋は、明治中期まで現在の大手前通り(当時の名称:国府寺小路)の一筋西側の「中之門筋」で、1903年(明治36年)以降は現在の大手前通りの一筋東側の「御幸通り」がその役割を果たしていました。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、姫路大空襲で焼け野原となり姫路市の中心部は甚大な被害を受けました。その戦災復興のため戦災復興土地区画整理事業の目玉事業として、姫路城と国鉄姫路駅(現JR)を結ぶ道路(国府寺小路)の拡幅が姫路市により計画され、1949年(昭和24年)9月に着工、1955年(昭和30年)2月20日に完成し、盛大な式典が行われました。この道路は、建設当時「50m道路」と言われていましたが、一般公募により「大手前通り」と命名されました。当時は、大阪市の御堂筋がそう言われたように「飛行場でも作るのか」と揶揄(やゆ)されました。1984年(昭和59年)2月から1988年(昭和63年)にかけて「大手前通り・シンボルロード整備事業」が実施され、歩道はクスノキ(県木)が植えられ現在の姿となりました。この大手前通りは、姫路市の代表的な祭り、「お城まつりパレード(5月初旬)」、長壁神社の「ゆかたまつり(6月)」が行われ、姫路市民からも親しまれ愛されている道路です。
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JR新幹線開通
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1972年(昭和47年)3月15日、山陽新幹線新大阪~岡山間が開業。
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JR山陽・播但・姫新線高架
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JR山陽本線等姫路駅付近連続立体交差事業は、JR山陽本線約4.3km、JR姫新線約1.3km、JR播但線約1kmの高架化と貨物基地と車両基地の移設を行う、総事業費約632億円、事業期間1989年(平成元年)から2010年(平成22年)までの大規模な事業です。2006年(平成18年)3月、JR山陽本線高架切り替え完了。JR姫新線・播但線2008年(平成20年)12月22日、高架切り替え完了。これで、JR姫路駅周辺の鉄道の高架化がすべて完成しました。
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大きく変わった姫路駅前
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2019年6月27日木曜日
姫路城下「明治時代」体験コース
姫路城下「明治時代」体験コース
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御幸通り完成
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1903年(明治36年)秋、明治天皇が姫路城北練兵場での観兵式で行幸されるにあたり駅前通りが建設され、「御幸」と名付けられました。それが、現在の「御幸通り」です。
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第三十八銀行・竪町に開設
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松竹座跡一帯
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1878年(明治11年)、廃藩置県で生業をたたれた各藩士の資産保持のため、明治6年から8年まで明治政府から支給された秩禄(ちつろく)公債(給与を支払うために出した国の債務)を拠出し、伊藤長次郎、近藤薫、永田伴正、岡崎真鶴の4名が発起人となり、資本金23万円で、第三十八国立銀行を竪町(松竹座跡一帯)で設立。地場産業発展とともに成長し、1926年(昭和元年)に中呉服町に本店を新築し、1936年(昭和11年)12月、姫路銀行・五十六銀行・岡崎銀行などと合併。「神戸銀行」として本店を神戸市に移した。
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演芸館「七福座」復活!!
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二階町と大手前通りの交差点
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明治30年頃、演劇愛好家の牛尾梅吉氏ら7名の有志が、二階町通りに(大手前通りとの交差点一帯)「演芸館•七福座」を開場。姫路初の活動写真も上映されましたが、1900年(明治33年)焼失。1903年(明治36年)、竪町に「楽天座」が開場。播州一円から客を集め賑わいましたが、昭和初期に活動写真館に転用。当館は、無声映画時代専属の音楽隊を持っていたそうです。1908年(明治41年)、城南小学校跡に活動写真専門館「白鷺館」が開場。上映の際は、クラリネットやバイオリン演奏と活動弁士で構成され、弁士の人気によって観客動員数が左右したそうです。昭和40年代、姫路市の中心市街地には、南座(駅前町)、帝劇(忍町)、白鷺館(福中町)、白鷺名画座(西二階町)、日劇(竪町)、松竹座(竪町)、大劇(十二所前町)、日活(東駅前町)、山陽座(東駅前町)、第二白鷺館(総社)の10館ありました。
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姫路市役所・白銀町に開庁
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中国銀行周辺
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1889年(明治22年)に市制が施工。同年8月18日、白銀町(中国銀行周辺)の生田医院を借上げて姫路市役所開庁。家賃は月5円だったそうです。1897年(明治30年)北条口の新庁舎に移転しましたが、空襲で罹災。公会堂に仮住まい。1947年(昭和22年)5月本町に移転。1980年(昭和55年)現在の安田4丁目1に移転。
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兵庫三大新聞・鷺城新聞
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下白銀町周辺
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1900年(明治33年)、下白銀町(しろがね)周辺で生田慶吉氏が創刊。後に、活版業を経営する高橋金治氏(高橋秀吉氏の父)が引継ぎ、編集方針も『真実の報道を正義とし、正義のためには権威にも屈しない』と、当時の第十師団相手に論戦、教育界の乱脈、警察の腐敗を指摘し、市民から支持を集めました。最盛期には社員72名を有し、兵庫県の三大新聞と呼ばれ、播州一円の愛読者を持っていましたが、1919年(大正8年)廃刊となりました。
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<鷺城文壇>
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高橋金治氏は、三木露風、有本房水、安田清風ら全国で名をはせた詩人や文学者らが投稿する「鷺城文壇」を設け、近代播磨文学史に輝かしい足跡を残しました。
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福中町がメインストリート
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福中町は、江戸時代から明治・大正・昭和初期まで交通の要でした。旅館や商店が軒を並べ、姫路のメインストリートとして賑わっていました。
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人力車
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輪タク(イメージ)
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江戸時代、交通の要所として賑わった福中町は、駕籠(かご)・人足問屋・伝馬所などが建ち並んでいました。1869年(明治2年)人力車が東京で発明され、1873年(明治6年)橋本清七氏が人力車業を福中町で開業。当時、文明開化にふさわしい交通手段として話題になり、1889年(明治22年)人力車の所有台数300台と急成長し、昭和20年代まであったそうです。これに変わったのが、輪タク(自転車タクシーのこと)業で、姫路では昭和40年代後期まで中心部を走っていたそうです。
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料亭・あいらく園
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忍町周辺(十二所神社西側周辺)にあった「料亭・あいらく園」、姫路藩主・本多家の下屋敷を活用した風情のある料亭で、姫路市民を始め京阪神の人達からも親しまれ繁盛しましたが、残念ながら空襲で罹災(りさい)しました。
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日本一の機関庫
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1903年(明治36年)、当時経営していた山陽鉄道会社が現在の姫路駅西側一帯に、全国でも珍しい洋式煉瓦造りの大機関庫を建設。完成当時は、この洋風建物を見物するために弁当持参で市民が集まったそうです。この扇型の建物には、機関車10台収容できる車庫で、機関車を出入りさせるため車庫の前に回転台が設けられていました。当時、日本一の機関庫だったそうです。
第二次大戦前、機関車が大きくなりすぎたため取り壊されたそうです。戦後、機関車がだんだんと大きくなり取り壊されました。
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2019年6月26日水曜日
姫路城・外濠跡散策コース
外濠跡散策コース
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竹之門跡
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竹之門絵図
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竹之門の造りは、枡形や喰い違いのない簡単な造りでした。建物も単門で、由来は鬼門にあたるため「他家=竹」の門と命名されたそうです。この付近には、濠の跡が残っていますが、遺構は残っていません。
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外京口門跡
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外京口門絵図
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濠の側面に引き込んだ特異な桝形。幅広い土橋は、1625年(寛永2年)の洪水で流失し、その後、木造で作られました。外京口門は、京都方面に向かって開かれていることから名付けられました。遺構は残っていません。
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北條門跡
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北條門絵図
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北條門の土橋は長く喰違いに造られています。これは、敵に横矢を放つためのものです。城門は、二重の隅櫓が建てられています。北条方面に向かって開かれていることから名付けられました。遺構は残っていません。
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飾磨門跡
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飾磨門絵図
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枡形ではありませんが、横矢を考慮した厳重な構えです。中・外濠では最大の渡り櫓でした。由来は、飾萬津(しかまつ)方面に向かって開かれていることから名付けられました。現在の山陽電車・姫路駅の北周辺にありました。遺構は残っていません。
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備前門跡
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備前門絵図
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車門同様に二重の濠に面し、中・外濠の区別も明確になっていません。備前門の由来は備前方面に向かって開かれていることから名付けられました。遺構は残っていません。
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