御着城コース
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JR御着駅
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黒田官兵衛
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この御着城は、大河ドラマ「軍師・官兵衛」でお馴染ですが、黒田官兵衛が大きな転機となるのが秀吉との出会いです。播磨の豪族が、毛利方?織田方か?で揺れ動く中、織田方に付くよう主君・小寺氏を説得。信長の命で秀吉に従うことなった官兵衛は、毛利攻めに向かう秀吉に姫路城を献上。それ以降、秀吉の懐刀として、播磨制定・中国攻め・四国・九州征伐などで数々の合戦で名をはせていきます。中でも、備中高松城で水攻めを敢行している折、本能寺の変により信長の死去が知らされ肩を落とす秀吉に、今が天下取りのチャンスであると進言し、「中国大返し」を実行させました。
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黒田家墓所
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これらのエピソードからも、時代を見通す慧眼の持ち主であったことが伺えます。また、戦国時代にあって、人の命をむやみに奪うことを嫌った官兵衛は、実戦だけでなく数々の戦で折衝にあたります。その中で、説得に赴いた有岡城で1年以上の間土牢で幽閉されました。それでも秀吉を裏切らず忠節を貫いた「信念の人」でした。各地の戦陣で活躍した官兵衛は、1587年(天正15年)に九州征伐の功績で豊前国の6郡を与えられ、豊前・中津へ移り、黒田家筑前52万3千石の礎を築きました。
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官兵衛は、59歳でこの世を去りました。
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黒田官兵衛・顕彰碑
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御着城跡
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姫路城から国道2号線を東へ、市川から更に東へ約3㎞。国道沿いに御着城跡公園(ごちゃくじょう、別名:天川城)があります。
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御着城本丸跡碑
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御着城跡縄張推定図
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城の中核に本丸(姫路市東出張所あたり)と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の濠、北と東は四重の濠、外郭部に家老屋敷や町家がありました。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走っています。御着城は、中世末期に西播磨最大の国だった小寺氏の本城で、東播磨を押えていた別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに「播磨三大城郭」といわれていました。
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小寺大明神
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御着城址碑(天川城址)
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西国街道沿いの古い町並み
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西国街道は、京都(東寺口)から高槻市の淀川右岸を通り、大阪市内を経ないで西国(下関、九州まで)へ至る江戸時代の重要な幹線道路でした。近世から近代にかけては、人・物・情報・文化の伝播を担う動脈でもありました。
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旧西国街道・天川に架かっていた天川橋
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御着宿・本陣跡
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延命寺
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1885年(明治18年)明治天皇が山陽方面を巡行された際、ここ延命寺でご休憩されました。
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明治天皇御着御小休所碑
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徳證寺
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徳證寺(とくしょうじ)伝によると国分尼寺で、毘沙門池の畔にあったといわれています。元は真言宗でしたが、1496年(明応5年)春住尼妙法が蓮如上人の法話を聞き真宗に帰依し、帰国後、国分寺村内に寺を移転しました。現在地は、小寺政隆の子則職の時代に移されました。
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法華寺と衣笠元超・元眞の墓
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江戸時代後期から代々御着在住の医師であった「衣笠家」の墓があります。衣笠元超は京都白川御殿で御殿医として仕え、後に諸国を行脚しこの地を訪れた際、大庄屋・天川氏の知遇を受け医院を開業しました。その子・元眞は家業を継ぎ医者をする傍ら漢学も教えていました。姫路藩が1828年(文政11年)に旧山陽道に架橋した旧天川橋に刻まれた詩を書いた書家と伝えられている。
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衣笠元超・元眞の墓
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大榎と庚申堂
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天川の堤防にある大榎(えのき)は、樹齢600年姫路市の保存樹に指定されています。その大榎の下に庚申の青面金剛を祀った社、庚申堂(こうしんどう)があります。その横に、河川敷が住宅地になったことを記念して「廃川(はいせん)乃碑」が建てられています。この碑は旧天川橋の擬宝珠(ぎぼし)で造られています。
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