姫路市の城跡散策
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姫路城
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姫路城
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豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制するため、徳川家康から命を受けた池田輝政公は、1601年から8年、1609年(慶長14年)現在の広大な城郭を姫山に築きました。築城に携わった人員は、4~5千万人といわれています。
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姫路城の縄張りは、大天守を中心に南の平野部へ左巻きに渦を描きながら螺旋状に広がった「渦郭(かかく)式縄張り」で、日本の城の中では江戸城と姫路城だけの珍しい縄張りです。
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御着城跡
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城の中核に本丸(姫路市東出張所あたり)と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の濠、北と東は四重の濠、外郭部に家老屋敷や町家がありました。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走っています。御着城は、中世末期に西播磨最大の国だった小寺氏の本城で、東播磨を押えていた別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに「播磨三大城郭」といわれていました。
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大塩城跡(西法寺)
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西法寺の境内が大塩城跡と伝えられています。東側の公園は外濠の跡だそうです。城主・大塩次郎景範(かげのり)の嫡男(ちゃくなん)景光は、赤松則祐に従い神南の合戦で功績をあげたそうです。
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妻鹿城跡
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妻鹿城跡(別名:国府山城)は、市川右岸の標高98mの甲山に築かれた山城で、1580年(天正8年)秀吉に姫路城を渡し、黒田官兵衛は父・職隆とともに移り住みました。山の麓にある「妻鹿城址」の碑は1970年(昭和45年)建立されました。
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間浦古郭(城山公園)
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城山公園は、飯盛山の古城跡で、地元では「城山」と呼ばれています。城主は苦瓜助五郎本道といわれています。
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英賀城跡
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英賀城は室町時代の中頃、赤松一族によって造られましたが、1441年5月、城主の赤松祐尚(すけなお)が亡くなり、恋浜(現在の白浜町)の城主・三木氏がここに移り大きな城に建て替え、約140年間、東は的形から西は室津までを領土として英賀は栄えました。1580年(天正8年)1月、羽柴秀吉は三木城を落城させた後、同年2月、英賀(三木通秋)に攻め込みます。秀吉の策略に応じた三木与一兵衛ら5人が秀吉軍を城内に入れたことにより、焼き討ちにあい、英賀城は一夜にして廃墟となってしまいます。この英賀城本丸跡石碑は、英賀城本丸のあったところに1960年(昭和35年)建てられました。
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丸亀藩陣屋跡
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龍野藩主・京極家が、四国・丸亀に移封されても興浜や浜田の地は、丸亀藩の飛地となり、京極家の領地でした。この興浜の陣屋には、郡代や郡奉行が派遣され、藩の屋敷などがありましたが、1870年(明治3年)取り壊されました。この建物は老朽化した陣屋門を参考に、1987年(昭和62年)改築されたものです。
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林田藩陣屋跡
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室町後期、谷沢国氏(くにうじ)が子の丘に築城、窪山城(くぼやまじょう)と名付けたのが始まりといわれています。1516年、赤松政村に背(そむ)き落城。林田藩の藩祖・建部政長は1610年8歳で亡父の後を継ぎ、大阪の陣で徳川方に付き、摂津国・尼崎城を固守し、その功績が認められ、1615年、摂津国川辺郡・西成郡の内一万石の所領を与えられます。1617年、播磨国揖東郡林田(現在の姫路市林田町)に国替えとなり、窪山城跡を聖岡(ひじりがおか)と改め、ここに陣屋を構えました。政長は、灌漑(かんがい:排水)用に鴨池をつくり、特に、農業に力を入れたそうです。三代・政宇(まさいえ)は伏見奉行にもなり、京の大火で御所が炎上した際、造営に取り組み、1714年寺社奉行に昇進したそうです。七代・政賢(まさかた)は、学問を好み林田藩校・敬業館(けいぎょうかん)を創設、藩の繁栄に大きく貢献しました。九代・政和は、幕府の大番頭として京の二条城守護の重責についています。また、藩校・敬業館の講師に河野鉄兜(てっとう)を迎え、藩の繁栄にも貢献しました。林田藩は藩主の交代もなく廃藩置県まで250年、十代に渡り建部家が治めていました。歴代藩主の墓は、京都・大徳寺内芳春院に祀られています。建部家は外様大名(徳川家の本来の家臣ではなく、関が原の戦い以後、臣従した諸大名)でした。
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坂本城跡
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平城で別名を堀之城または御構御所ともいわれています。1422年(応永29年)、赤松満祐が播磨支配の拠点として築城したそうです。
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置塩城跡
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置塩城(国指定史跡)は、標高370mの城山山頂部に、東西約600m・南北約400mに広がる播磨最大規模の山城です。山上には、曲輪・通路・石垣・土塁などの遺構もよく残り、平成13~17年に行われた発掘調査では、主郭から礎石や庭園、築地土塁を持つ格式の高い屋敷跡が確認されています。また、伝本丸からは基礎を塼瓦(石畳のように土間や地面などに敷き並べる平たい瓦のこと)で区画した天守に似た櫓状の建物も発見されています。1441年、嘉吉の乱後に赤松宗家を再興した赤松政則が、播磨守護に就き、1469年(文明元年)に築城しました。以後、義村・晴政・義祐・則房の五代にわたり、置塩城を赤松家の本城としました。1580年(天正8年)、播磨を平定した羽柴秀吉は、翌年、播磨国内の置塩城他の破却を命じ、1585年(天正13年)則房が阿波へ移封されるまでの間に置塩城は廃城になったと考えられています。
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