2019年5月28日火曜日

水城と呼ばれ、140年の栄華を誇った「英賀城」

水城と呼ばれた「英賀城」

英賀城は室町時代の中頃、赤松一族によって造られましたが、1441年5月、城主の赤松祐尚(すけなお)が亡くなり、恋浜(現在の白浜町)の城主・三木氏がここに移り大きな城に建て替え、約140年間、東は的形から西は室津までを領土として英賀は栄えました。1580年(天正8年)1月、羽柴秀吉は三木城を落城させた後、同年2月、英賀(三木通秋)に攻め込みます。秀吉の策略に応じた三木与一兵衛ら5人が秀吉軍を城内に入れたことにより、焼き討ちにあい、英賀城は一夜にして廃墟となってしまいます。
復元土塁
英賀城郭区域復元図
野中口之跡碑
英賀神社の英賀城土塁跡
岡芝口之跡碑
井ノ上口之跡碑
芝の口之跡碑

英賀城下の港・田井ケ浜之跡碑

英賀城は、赤松氏の居城でしたが、三木通近が白浜から移り、新城を築き、土塁をめぐらせ田井ヶ浜に港を開き、一大城郭を築き「岩繁城(いわつきじょう)」と名付けました。NHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」でも放映されたが、毛利軍が播磨に上陸したのが「英賀城下の港・田井ケ浜(姫路市飾磨区中浜町)」なのです。

英賀城本丸之跡碑

この英賀城本丸跡石碑は、英賀城本丸のあったところに1960年(昭和35年)建てられました。



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