姫路藩名家老・河合寸翁
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江戸時代後期、財政難で苦しんでいた姫路藩主・酒井忠道は、家老の河合道臣(後の河合寸翁)に財政再建の命を下します。道臣は、質素倹約令を布き大々的な改革を行い、領民に米を無利子で貸し与えたり、低金利で生活資金を融資したりという画期的な金融政策を行いました。また、いざというときのために共有の米を保存する固寧倉(こねいそう)を設けました。また、姫路城下の木綿業者らと共に「木綿会所(現在の広島銀行姫路支店前)」を作り、木綿を「玉川さらし」という姫路藩の特産品として、大坂(大阪)の商人を通さず、直接江戸で販売する方法を考案し、財政の立て直しを図りました。そのお蔭で、藩の収入の7倍もあった負債を、27年で完済しました。
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一方、茶人として有名だった姫路藩家老・河合寸翁(すんおう:道臣)は、お茶席には欠かせない和菓子造りのため、姫路の菓子職人を江戸や京都に、また、南蛮菓子を学ばせるため長崎の出島に派遣しました。それが現在の姫路の菓子つくりの原点となり、姫路銘菓「玉椿(名付け親:河合寸翁)」や「播州かりんとう」の原型を作りました。このように、河合寸翁の功績は大きく、姫山公園内にある姫路神社に酒井家歴代姫路藩主とともに、寸翁神社として祀られています。
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仁寿山黌
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仁寿山黌(じんじゅざんまなびや)は、1821年(文政4年)姫路藩家老・河合寸翁が設立した私塾で、菅野真斉・近藤抑斎を教授とし、藩の子弟などの教育にあたりました。1844年(天保15年)山學に対する非難が高まり、姫路藩主・酒井忠学によって廃止され、藩校・好古堂に吸収されましたが、医学寮は幕末まで続いたそうです。
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河合家墓所
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坂田町・善導寺から移した川合定恒、河合寸翁など河合家一族の墓碑があります。
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