姫路菓子の歴史
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姫路に菓子文化が根付いてきたのが、江戸後期といわれ、当時、藩主であった酒井家が茶の湯を好んだことで、姫路城下に広がったといわれています。この頃の姫路藩の財政は困窮し、73万両(現在の価値にして約440億円)の財政赤字がありました。当時の藩主・酒井忠以(ただざね)は、家老の河合寸翁に藩の財政再建に専念するよう命じました。河合寸翁は藩政改革を行うとともに、農商工業の振興と木綿会所を開設させ、木綿、小麦粉、菜種油、砂糖などの物産を全国から姫路城下に集め、商業を盛んにさせました。中でも、茶人の寸翁は和菓子づくりを奨励し、職人を江戸や京都、長崎に派遣し、技術の習得をさせました。その伝統は現在も受け継がれ、「玉椿」、「きぬた」「三左衛門」「清十郎最中」「御座候」「姫路駄菓子(油菓子)」など様々な菓子が作られています。
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玉椿
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きぬた
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三左衛門
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清十郎最中
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御座候
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本わらびもち
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姫路駄菓子(油菓子)
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姫路の和菓子は、茶の湯に使われるようになった「半生菓子系」と、油で揚げた「油菓子系」に分けられます。油菓子は長崎に伝えられたものが全国各地に広がったものですが、姫路では、藩主・酒井忠以の時代以降、藩の援助育成のもと、全国各地から集められた良質の小麦粉や菜種油等を使ったのが「姫路駄菓子(油菓子のこと)」で、昭和初期まで姫路市の船場本徳寺の門前に駄菓子屋が軒を連ねていましたが、戦災で焼失し、業者も市内各所に分散してしまいました。戦後は、全国各所にあった業者が減少する中、姫路の油菓子「姫路駄菓子」は、全国で有名となり、その名を馳せることとなりました。1952年(昭和27年)姫路菓子同業組合が設立され、品質の向上や販売方法の研究などを行い、数年おきに開催される全国菓子大博覧会にも出展し、名誉総裁賞など数多くの賞を受賞しました。
2008年「全国菓子大博覧会・姫路菓子博」が世界文化遺産・国宝・姫路城で行われ、菓子博史上最高の92万人の入場者がありました。
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姫路菓子組合・姫路菓子の歴史から
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「遊びにおいで姫路へ」は、あまり紹介されたことのない姫路の観光スポットや散策コース、うまいもん、花だより、みやげ物、おいしい食べ物や工芸品の体験情報など満載です。姫路ファンの皆さんに「楽しかったわ。面白かったわ。」と100%満足していただくための「姫路観光情報ガイド」です。
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