2019年4月29日月曜日

ゆかた祭りの「長壁神社」

長壁神社

長壁神社は、1,000年以上前から現在の姫路城のある姫山に鎮守神として祀られていました。しかし、黒田官兵衛や羽柴秀吉(豊臣秀吉)が姫山に本格的な城を築き、池田輝政が現在の姫路城に改修してからは、城内にある長壁神社には武士以外は参拝できなくなりました。
姫路市竪町33

ゆかた祭り

長壁神社前
西二階町商店街
1732年(享保17年)姫路藩主・榊原政岑(さかきばら まさみね)は、将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅(ぜい)を尽くし、奇抜な服装で江戸城・大手門を警備、江戸・吉原では派手に遊興に耽(ふけ)り、新吉原の三浦屋・名妓・高尾太夫を2,000両で身請けするなど、度を過ぎた贅沢を好んでいました。また、高尾太夫のために酒宴を開いた費用は、3,000両を超えたといわれています。これは尾張藩主・徳川宗春の乱行同様、享保(きょうほ)の改革に対する抵抗と見なされ、将軍・吉宗の怒りを買い、1741年(寛保元年)10月、吉宗は政岑に上京を命じ、その乱行を厳しくとがめました。当初、吉宗自身は改易(かいえき:武士から身分を剥奪し、所領と城・屋敷を没収すること)を考えていたそうですが、榊原家の家老・尾崎富右衛門が懸命な弁明に努めたため、10月13日、強制隠居の上で蟄居(ちっきょ:武士に科した刑罰で、自宅等に閉じ込め謹慎させること)を命じられ、家督は息子の榊原政純が継ぐことが許されましたが、越後高田に懲罰的な転封(てんぽう:所領を別の場所に移すこと)を命じられました。転封前、政岑は長壁神社に庶民も参拝できるようにと長源寺の境内に社を移し、1742年(寛保2年)622日に遷座(せんざ)祭を開催しました。その祭に町人が式服を作る時間がなく、参加するのを躊躇(ちゅうちょ)していたところ、政岑が「よいよい、普段(浴衣)のままで」と申され、町人は浴衣姿で祭りに参加したそうです。その後、例祭に参拝する人がそれに倣(なら)って浴衣を着るようになりました。これが「ゆかたまつり(毎年622日~24日に開催)」の起源といわれています。
<参考>
当時、浴衣は下着と同じで、そのまま外に出ることは「はしたない」と考えられていましたが、これがキッカケで、夏祭りに浴衣を着ることが広まったといわれています。



0 件のコメント:

コメントを投稿