2026年3月31日火曜日

浮世草子・人形浄瑠璃作者・俳諧師「井原西鶴」

浮世草子・人形浄瑠璃作者・俳諧師「井原西鶴」

 

 

お夏・清十郎比翼塚

慶雲寺

姫路市野里慶雲寺前町10-1

西鶴は、姫路に足繁く通ったかどうかは不明ですが、姫路を舞台とした作品「好色五人女」を1686年(貞享3年)に書いています。目録題は「姿姫路清十郎物語」いわゆる、お夏・清十郎の物語です。この物語は室津、尾上、飾磨などの城下町周辺も舞台にしていますから、西鶴は姫路の情報をよく把握していたといえます。
この物語にも出てくる、妖怪「於佐賀部狐」は姫路の有名な民間伝承ですが、西鶴も『西鶴諸国はなし』1685年(貞享2年)年刊 巻一の七「狐四天王」で一話を形成しています。この情報ルートには、もちろん、明石の場合のような俳諧仲間が考えられますが、もう一つ、商業ルートが考えられます。
西鶴作品には、しばしば「網干衆」と呼ばれる商人の名があがります。『好色一代男』では、東北の酒田の問屋鐙屋の宿泊客として書かれていますが、酒田の本間家の当主が網干で修業したように、日本各地の買い付けにまわる「網干衆」は西鶴のよき文学情報源だったのかも知れません。


井原西鶴

生誕1642年 ⇒ 死去1693年 享年52歳

 

 

初代播磨国守護「赤松則村」

赤松則村


 

白旗城

赤松則村は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将で、1277年(建治3年)播磨国佐用庄赤松(現在の上郡町赤松)に生まれた。鎌倉幕府の出先機関である京の六波羅探題の御家人、山陽道に近い赤松の地の利を活かした中国山地の木材や鉄などの流通を掌握し、力を蓄えた。1333年(元弘3年)57歳の時、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王の令を受け倒幕の兵を挙げ、京へ進攻。六波羅を攻め落とすなど建武政権の樹立に多大な功績を挙げたが、政権内部の対立から護良親王派として失脚、足利尊氏が政権に反旗を翻すと行動を共にして政権方と戦い、尊氏が敗れて京を追われると、九州へ下って体制を立て直し、朝敵となるのを免れるため後醍醐天皇と対立する光厳上皇より院宣を得ることを進言。その後、新田義貞率いる6万の追討軍を白旗城で50日余り釘付けにして進撃を防ぎ、東上してきた尊氏と合流し京へ攻め入り、室町幕府成立の立役者となった。この功績により、円心は播磨国守護職に任命され、その後の守護大名赤松氏興隆の基礎を築いた。1350年(貞和6年)京都七条の邸宅で74歳の生涯を閉じ、京都の建仁寺久昌院に墓、上郡町法運時雲寺に供養塔がある。

赤松則村

生誕1277年 ⇒ 死去1350年 享年74歳